懲りない父子 子育て 難しいのは我家だけ?

お彼岸を迎えて思量しました。

 

思い通りにならないことは多々あります。

本日ご年配のご門徒さんとお話をしていたら「七転び八起き」という言葉が出てきました。「実をいえば七、八どころじゃなかった」と、これまでのご苦労についてと、その上に「今がある」ことを語られていました。

 

人間は生きていれば必ず通過しなくてはならない障害にぶつかります。

だいたい「そんな感じ」のことは「許容可能な糊代部分」として各人がイメージしていてそれぞれがその許容と次に訪れるであろうハードルについてくらいまでは受け入れられることは十分可能なのですがその容量、キャパシティ、「障害」の頻度によってはその受け取り方も違ってくるでしょう。

 

しかし許容度を超えて、たてつづけに大きな障壁や渓谷のようなものが行く手を遮ればそれは心が挫けることもあるでしょう。

それが生身の人間というものですね。

それぞれの受け取り手によってその山谷の高さ深さは違ってきますので他者の感じるそれぞれの痛みや辛さについて、当人が悲鳴を発していても、しばし共有することができずに「何かの結果」が出現した後になっても周囲は「わからない」という言葉を吐くのでしょうね。

要は微妙な信号を発していても聞こえてこないのです。

 

これが「自殺者3万人」という不名誉な数字を晒した「世界を牽引する国」を自負するお国の実態です。皆が自分のことしか目が向いていないのですね。他者への配慮の欠如が大きく浮き彫りになっています。

自分の事で「いっぱいいっぱい」なのに他者の問題にまで心を配る余裕が出てこないのかも知れません。現代は過度な個人主義から他人の干渉を嫌う傾向にありますし。

 

私ども代々繋いできた当山僧籍にあった者たちも勿論私を含めて本当にご門徒さんの悲痛を心をひらいて受け止めてともに感じ入ってきたのかというといささか疑問を感じています。

葬式をしていればいいという時代では無いですし、墓地についてもそうですが葬儀や寺の立場はますます無くなりつつあるよう感じる昨今ですがそこで一考察。

 

 私についてどこに問題があるのか足元に目を移せば、それは一目瞭然です。自分本位の解釈を展開して相手の心の奥に控えている「真の不安定」を見落とすというところだと思います。(他にも基本的生活態度等坊さんとして内在する問題点多数ありますね。おそらく失格でしょう。)

まず何より拙速に早合点して持論を展開し結論を導くということでしょうか。

先代は私の父親で今だ健在ですが、一言で纏めれば「自分の欠点、失敗はとことん許容し、他者の欠点、失敗はとことん追求する」という人です。教員から坊さんの道に入った人で何を錯覚してしまったのか世の人皆が生徒のつもりになっているようです。

私もそのことを見て反面教師として十二分に判ったつもりでまた自ら肝に銘じていましたし当寺の悪癖であるならば絶対修正の必要を感じてもいました。

しかし時間が経つにつれてつくづく「何か最近父親に似てきたなぁ」と思ってきたのです。

 

 ヘビースモーカーの祖父と父を見て「絶対に煙草は吸わない」と心に決めたものですが、これはいい反面教師になりました。

しかし性格というものはそう簡単に変えられるものでは無いですね。

 

だがしかしですよ、「自分の欠点、失敗はとことん許容し、他者の欠点、失敗はとことん追求する」これはいかにも極端な表現ですがそもそも「自分に甘く他人に厳しい」という姿は「煩悩の基本」です。

ある意味仕方のない「人間臭さ」であることは違い無いのですがね。

 

 「我執とは情けない 修行が足りん」「もう一度やりなおせ」という声も聞こえてきそうですが私などきっとどんな辛い修行を重ねてもこれら煩悩の数々は消し去ることはできないでしょうね。

そもそも門徒に修行ないですし。やりたいこといっぱいありますし。

そんなどう仕様も無い身なのです。

 

 

まず自分のコントロールもままならないのですが、こと次男のことになるとどうしていいものか判りませんね。子育てというものがこんなに難しいものなのか、また何と自分が非力なのかほとほと呆れかえっているところです。

子供のことを「私のミニチュア版」と人は言いますし、同時代の私と同じようなところが多くあることはわかります。

上記嫌になるところですが当家の不器量を棚に上げて他方に目を向けることが許されることを期待して記せば「時代の責任」というものもあるのかと思います。

何しろモノが溢れまくっているのです。

 

 子供心に訴える刺激と興味そしてサティスファクション(R・ストーンズ)-充足への誘惑がそこいらじゅうから降り注いでいます。

大人だって色々な誘惑にコントロールが効かなくて信じられないことをしでかしますね。バカみたいな事々を・・・全てを判っているのだという風のいい歳したオトナがですよ。

あんな偉い人が、すばらしい地位の人が・・・勿論私も「煩悩具足の凡夫」であって論外ではありません。

 

 人間というものがいかに自身のコントロールができないものなのか、難しいものなのか、特にその自己との戦いについてよりクローズアップすることが私にとって重要なことなのか。(他者に倫理や道徳の類をドヤ顔で説く者の責任として―そのことこそが釈迦以来、仏教のテーマなのです)

 

 甘い飲み物、ジュースみたいなお酒・カラフルな煙草の銘柄を売る自販機をはじめゲーム・携帯・アイホンにアイポッド。カラオケハウスにゲーセン等々、楽しそうなこと興味をそそられること、我らが子供の頃にはそんなもの殆ど限定的。

ところが現代はそれらがどこを見ても溢れています。

「我慢」などという言葉は死語ですね。「欲しがりません勝つまでは」の名残をまだ少しばかり耳にする時代に生かされましたので現代の湯水の様に溢れる品々の種類の多さは当時とは雲泥の差を感じます。

私はそれらの事象の「何だか訳のわからない反動の危惧」からどうやって子供を守っていいのかその術を知りません。

 

 上記の事々、良識ある大人たちは「ほどほど」という言葉で許していますね。(その言葉はよく酒にコントロールが効かずに体を壊したり飲酒運転をする人が良く使う言葉のようにも感じます。実際は「ちょっとぐらいのこと」から弱い心の我々は信じられないような病的な現象を導いてしまうのですけどね。)

「少しぐらいなら」という考え方(いわゆる許し―慈悲ではない)と「経済活動の自由」、そして何より「自己責任」という言葉で結果をこちらばかりに投げかけてきます。

 

 私もつい騙されて痴呆の入りつつある父親の携帯を子供に与えました。

連絡をつけるという点では親も安心であると思うからでしょうが高校生ともなればまずどの家庭でも当たり前の様に持たせていますね。

また、次男がお年玉で密かに買ったアイポッドについては黙認しておりました。

 

 しかしこのほどアイポッドにダウンロードしては引き籠って携帯チャットメール三昧の姿にはいい加減吐き気をもよおして、その状況に今こそ終止符を打たんと「短絡的」とご指摘はうけることは承知で携帯と音楽ダウンロードの端末を彼の目前で破壊しました。リセットです。

あまりにも過剰とお怒りにならないでくださいね。

我が家のルールです。無意味でプラスにならないことは判っていても。

これが正直なところ私の煩悩の表れなのですよ。

刹那のスッキリ感は確かにありますよ。

 

 子育てといいながら自分が育っていないのだなとつくづく感じさせられる

今日この頃でありました。 まずは己の心の修正が急務です。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (月曜日, 24 9月 2012 17:16)

    何を持って子育てがよかったと言えるのか。
    子供が一生を終える時でないとわからない。
    今の人生も自分自身も一生を終える時でないと
    わからないと思います。
    その時その時に良かれと思って育てる。
    みんなそうだと思います。
    あなたの父親も良かれと思って育ててきたと思います。
    そのことに対して親不孝は考えられません。
    喧嘩をしても言い争っても、いくつになっても
    どんな時でも、親は親。子は子です。
    何と思っても時間の経過や考え方で
    いろいろ変わります。
    でも 親は親、子は子です。

    私の考え方です。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 24 9月 2012 18:25)

    ありがとうございます。
    「子育て」といいながら「黙っていても子は育つ」ことはみなさん判っています。
    しかしその育ち方に対して自分の事は棚に上げて「チャチャ」を入れたがるのが親なのでしょう。

    親は一定のイメージによってこの成長を描くのですがこの成長の仕方と現実との乖離が大きいと激しい焦燥感に駆られてしまうのかと。

    結局のところ当流風の教えによれば
    「お前にはお前の子供がある」(今のままを楽しみなさい)でしょうか。