富谷国民学校 学童集団疎開

画像は桑野龍輝(りゅうき)氏。

標記、戦時下に於ける国家的事業、学童集団疎開にて当地相良を訪れ昭和19年~20年の289日間を過ごされた富谷国民学校、大澤寺学寮の入寮者のお一人です。当HPに新規ページ追加しました。

昭和9年生まれということですが力強い歩き、重たい荷物とニコンのデジカメをぶら下げて渋谷区上原よりJR金谷経由静鉄バスにて当山にご参拝いただきました。

 13代前前住職の健在の時には、夏休みともなると桑野氏はご家族をひき連れて当山の会館に宿泊し、相良海岸での一家での海水浴を恒例とし楽しみとされていました。

その時の「見知らぬ来訪者家族」への記憶は鮮明に残っておりました。

 

 いつしかそのような記憶も徐々に薄れ、もはや過ぎ去りし思い出の様でそのようなこともこの世のならいではあると心得てはおりましたものの少しばかり寂しいことではありました。

そんな折り、桑野氏からの便りと来訪の報せ。8日の午前9時前にお越しいただきました。

奥様は既に亡くなられて今は高齢の母上様と暮らしているそうです。

お父上は桑野氏5歳の時、浜松で搭乗した練習機の墜落により亡くなっています。東京大学を卒業後陸軍で武器関係の研究の仕事だったそうです。

早朝自宅を出てその日のうちに試験飛行に赴いた浜松で亡くなったとの知らせ、母親は呆然と報せを受けたそうです。

「苦労に苦労を重ねて生き抜いた人は歳を重ねていよいよ元気」という感があります。

 

桑野氏から、昭和19年12月7日の東南海地震についてお聞きしました。

そのとき疎開児童は境内本堂前に整列していたとのこと。

本堂は正面から見て大きく左右に揺れるのがわかり、二つの水盤の水は溢れ出たそうです。

 その地震で地頭方村釣月院学寮6年生石井幸子さんが小学校の廊下の下敷きになって亡くなったという事案は悲しい出来事でした。

ご遺体は木々を集めた櫓で荼毘にされたとのことでした。

 

集団疎開に対して縁故疎開というものがあって大澤寺に一旦疎開後、縁故疎開で広島に向かった濱田博司さんがあの原爆で亡くなったお話もショッキングなことでした。

 

そもそも富谷国民学校学童集団疎開については昭和44年にNHKで放映されたドキュメンタリー「富谷国民学校」から耳にするようになりましたが、その後もNHKアーカイブで幾度か放映されているようです。

また各NHK放送局でも見ることができるとのことです。

古い大澤寺の本堂や境内、そして祖父である当山13代、匡らの姿も映っていました。