「木曽殿と背中合わせの寒さかな」源義仲墓所

標記、冬の句で失礼します。

俳人島崎又玄(ゆうげん)が無名庵に芭蕉を訪ねた時の句です。

 

義仲寺は旧東海道(地図)、古来より粟津ケ原と呼ばれる琵琶湖のほとりに広大な寺領を誇る寺であったといわれますが、今は百貨店などが立ち並ぶビル街の裏道の小さなお寺です。

 

当地で義経らに討取られた朝日将軍源義仲(木曽義仲)の側室、巴御前が「無名庵(むみょうあん)」と呼ばれる庵を結んだのが始まりといいます。

その後戦国時代、当地守護の六角氏により整備されたようです。

 

巴御前については小生のサイト内、「高天神城お散歩ツアー」から抜粋します。拙寺の元あった菊川段平尾周辺について記したものです。

 

*女、子供と油断

本楽寺跡の南西約200mに国指定文化財の高田大屋敷遺跡があります。

この屋敷は源平盛衰記(巻三十五「巴関東下向の事」)に巴を打取るにあたって「その聞こえし武勇」には危惧しつつも「やはり女」と油断して望み、馬上組打ちにかかって逆に巴に首をかかれた内田三郎家吉(平家物語では恩田八郎師重)の屋敷跡です。大澤寺(本楽寺)初代の今井権七郎が祖先今井四郎兼平の妹、巴が武具を捨てる直前に打取られた内田三郎家吉とその末裔の屋敷の鬼門の方向(北東)に寺を建てて菩提を弔おうとしたことがうかがえます。

 

※「覚一本」より巴の描写 当時28歳の巴です。

 「中にも巴はいろ白く髪ながく、容顔まことにすぐれた

   り。

 ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、打物もっては

 鬼にも神にもあはうどいふ 一人当千の兵者なり。

 

 究竟のあら馬乗り、悪所おとし、いくさといへば、札よき

   鎧着せ、大太刀、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけ

   られけり。

 

 度々の高名肩をならぶる者なし。

  されば今度も、おほくの者ども おちゆき、

  うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり。」

 

その巴御前の無名庵の前に木曽義仲の宝篋印塔が佇むのですがその墓石左脇に巴、右側に義仲の生き方に心を寄せた芭蕉の墓が建ちます。

芭蕉は心酔した「義仲の墓所の隣に」という遺言を残して大坂で亡くなり、弟子たちは舟で遺体をこの地まで運びました。

 

 境内には芭蕉と芭蕉他、芭蕉を愛した俳人たちの句碑が建ちます。

画像7枚目は「翁堂」内部、中央に芭蕉坐像と「正風宗師」(8枚目)の扁額が掛かっていました。

2枚目の画像は本堂位牌堂、で「朝日堂」と呼びます。

本尊、聖観世音菩薩で義仲、義高父子他、今井兼平、芭蕉等31柱が安置されているとのこと。

 

当日は「木曽殿と背中合わせの猛暑かな」は言うまでもないこと。 

 

 

上記画像は京都紹介で必ず紹介されるとカット、弥栄(やさか)の五重塔です。

 成り行きで朝敵にまで成り下がり敗走中に討取られた 義仲の首は京都市中に運ばれてさらされました。

 

その首塚がこの五重塔の脇にひっそりと隠れるように建っています。

最後の画像は五重塔の内部の仏たちです。

階段を上がれば祇園の町が見渡せます。