諏訪原城(牧野原城)

先日静岡空港見物の前に久し振りにブラッと諏訪原城に立ち寄りました。

諏訪原城は 別名牧野城、牧野原城とも言います。

今のわが牧之原市の名称ですが400年も前からこの台地周辺への

呼び名であったという証拠です~市町村合併による新名称として今の牧之原市の名称に違和感を覚えざるを得ない一番の根拠です。

そして「敗者の美学」なのでしょうか、徳川の手で武田の名称(諏訪大明神に由来する)は廃され、牧野原城と変更されたにもかかわらず、後世になって

再びその名が復活しているのも面白いですね。

まぁ耳にした雰囲気の良し悪しは、「観光」の視点から立ってもそれは

「諏訪原」の方が人は呼べるとは思いますが。

 この城は高天神城の付城として武田方、馬場信春の縄張りによる築城です。

巡らされた堀の遺構とその深さには驚かされます。

徳川方の手になってから改変を重ねているといいますが、当初の武田築城の突貫工事に際して地元住民の(金谷周辺住民の御先祖さんたち)の駆り出された労力というものは計り知れないこととつくづく感じてしまいます。

徳川方に渡った後のこの城については「家忠日記」によく登場しています。松平家忠は城番として三河と頻繁にこの城と行き来しこの城の改良を行っています。

 画像は駐車場入ってスグの看板と「粟が岳」遠望です。「粟が岳」といえばその山の中央付近を第2東名のトンネルが貫いています。

また諏訪原城の「山城」をうたった看板の図です。

以前にも記しましたが諏訪原城は大井川底部、東海道から見上げればまさに山城の様ではありますが、この付近特有の城、大井川由来の舌状台地の先端部分に築城され、横地城、勝間田城、滝境城等と同様、レベルの同じ台地上からの攻撃には「いきなり背水の陣」の如くの態勢となりその城の脆弱性を露呈させます。

よって厳密な意味での「山城」とは「ちょっと違うかな」と思います。まぁこれは私の勝手な考察ですので「山城ファン」の方、お気を悪くしませんように。

続けますが、皆さんがこれ等の城の攻め手の大将になった時、東側ゃ北側の急峻な崖下から攻めるのか、遠回りしても事前に台地上に兵をすすめて平坦な場所からの攻撃にするのか選択するとしたら100%、後者を選択するでしょう。

ですからこの城は街道筋、国境~遠州にあって駿州方面に睨みを効かす威圧的シンボリックな効果の方が大きかったでしょう。

それは南方の高天神城方面からは直接侵攻出来ないような深い谷あいはありますが、相良や初倉、今でいう空港方面からは非常に緩やかな、平地と同様の地形になっています。

 

画像は台地東端に平坦に開けたいわゆる本曲輪台地から見た

①「東海道と大井川」、②「東海道線と大井川と駿河湾」です。

(霞んでいてごめんなさい) 

少なくともこれら大井川底部からこの城を見あげれば間違いなく「山城」です。

この崖下20m付近には長さ90m幅6mの空掘跡があり、こちら側

下方が「搦め手」となります。

この平坦な主郭部には二重の櫓があったと云われますが物見台、狼煙台を

兼ねていた設備と思います。ここからでしたら小山砦へも直接伝達

できるかも知れません。どこか中継をおけばそう時間はかからなかった

でしょう。

武田方が小山砦に敗走した時もこの搦め手のルートを一気に駆け下りたと

思います。

 

二の曲輪から撮影した大手曲輪からの道を振り返った図と二の曲輪側の

図です。

驚いたのは最近になってコンクリートで塗り固められていたことです。

この土橋様(よう)の橋を渡ってスグの二枚目、二の曲輪の図ですが

(この奥が本曲輪)私が数十年前から知っているこの場所は一面茶畑で

丁度この辺りにはタイヤを積み上げた土嚢とその手前はコンクリートで固められた通路になっていました。

これは農作業の為の取り付け工事がされていたのだと思いますがこの「コンクリートで覆っていた」ということがその後大きな発見につながっています。

よって現状を維持するため、今後のこの先の発掘調査のための効率性を考慮してこのような無粋なモノで覆ったのだと思います。

「土橋様」と記したのは先の調査で「実は木橋があったのでは」とこれまでの推測が変更されています。これは今の橋の左右の土台が「牧之原礫層」であるのに反して橋の下の部分があきらかに種類の違う砂利が詰め込まれているからとのことです。

要は左右の堀が繋がっていたということで「土橋」では無かったという推測です。

今後はその「木橋」の修復を検討しているそうですからその地上部を守りながら使用するという意味では苦肉の策なのでしょう。

しかし一言そのあたりの事情を記していただけると親切なんですがね。

 

上3枚が去年春の同じ場所です。堀と「木橋」跡の発掘調査後の様子です。

この堀は水堀に多用される箱型の断面の箱堀で、見た目よりかなり深いものがあり、いくら掘っても底に届かなかったため崩落を恐れて今回の調査は中止にしたそうです。水が張られていたとしたら水源はどこなのか今一つ頭が混乱してきます。

二枚目の画像は橋を渡ってスグの二の曲輪入口にあったであろう「薬医門」の礎石跡です。

礎石が綺麗に残っていたのはさきほど記しましたように農家が作業の効率上崩落しそうなこの場所をコンクリートで覆っていたことが永い間、好条件で保存された要因だったのです。意外な新発見だったようでこれも現在文化庁に復元を打診しているようです。

また本曲輪入口の虎口には宝篋印塔の土台を使用した門の礎石が見つかっています。

「薬医門」跡の礎石は約2.4㍍×1.5㍍の間隔であるので浜松、水窪の高根城の薬医門と同様のものと推定されています。この時代のこのサイズの礎石間隔であれば即「薬医門だった」というのがこの世界の常識だそうですね。

諏訪原城は武田方が小山城へ逃げる前に火をかけていますで城の他の場所では炭化した壁、木、米などが出てきています。ところがこの門の周辺からは焼失の跡は見つかりませんでした。また特に比較的しっかりした作りであって長期に渡って使用することを考えて造っている様子がうかがえることから徳川方が奪取したあとに建築されたものと考えられています。「薬医門」とは「矢を食い止める」とか「薬医」→医者が通れるように開閉自由の・・・という説があるそうですが名前の由来は判明していません。

3枚目の図は二の曲輪。橋を渡って右方向の仕切土塁手前端に設けられた人一人が通行できるくらいの通路跡です。ポロッと鉄砲の鉛弾が発掘されてしまうような場所で黒い土の部分が当時の地質です。

二の曲輪は比較的広く平坦であるためにあまりにも攻撃に対して不用心となります。そこでが作られたのが仕切土塁でした。

 

画像は本曲輪と二の曲輪の間の「水の手曲輪」という内堀状の底部にある井戸跡です。二枚目が諏訪原城に沿う旧東海道の情緒醸し出す祠と石標たち。

3枚目が高根城の「薬医門」です。