槍衾 やりぶすま

昨日のブログは「無理やり」の高天神城に始まって「槍の切っ先」のお話で終わりましたので、こじ付けですが「槍」について。

「槍衾」(やりぶすま)は隊列を組んだ最前線の槍隊が間隙無く整列して槍を並べることを言いますが、戦国時代、1500年代中ごろに爆発的に鉄砲が世に溢れて、合戦・戦略方法がこれまでの野次の応酬、罵りあい、挑発から始まって、飛び道具の投石、弓矢の「前哨戦」の頃、それが鉄砲によって大幅に変更されるようになる前は大いに効果的戦法でした。

一糸乱れぬ隊列で足軽先鋒がズラリと並んだ様相は壮観だったと思います。これぞ「正々堂々の軍」ですね。

何といっても完全なチームプレーですのでいつもバラバラで統制がとれずに自分勝手に動くことが大好きな日本人には結構苦手な戦法であり完全な形に成立させるには相当時間がかかったと思います

統率された兵法に則っての合戦も必ずどこかで誰かが感情的になったり手柄を急いだりして隊列を乱し、本隊までもその為に敗北するということはよくあることです。それは人間社会で合戦に限らず色々当てはまりますね。

 軍団陣形で魚鱗(ぎょりん)の陣、鶴翼(かくよく)の陣等は非常に有名な陣形で、あるいは史実かどうかは別として上杉謙信の川中島、車懸(くるまがかり)の陣形なども耳にする機会があります。

それらの陣形の最前面に一列に槍衾を整列させることはベストな陣形なのでしょう、色々な合戦でその言葉が登場します。

各陣形に360°、どの方向からも対応するために「槍衾」の隊列を組むことができれば最強なのですが兵力分散にもつながり、実質不可能ですのでやはり想定される敵と対面する最前線に主力精鋭を並べるのが通例です。

 どの様な陣立てであったとしても最前線が崩れることと、後方からの攻撃、挟撃、「横槍」を入れられることは避けなければなりませんでした。

それらのリスクにも対応する機動力をも身に着けていたはずです。

要は戦いの主題は「勝つこと」ではありますが、むしろ「負けないこと」が重大戦略だったのです。よってそのためにあるべき姿は陣形の維持と統率でした。そのための絶対条件が「槍衾」だったと思います。

槍衾が乱れて隊列に穴が開き陣形が崩れれば敵に陣内深く攻め入られ味方陣形は統率までもバラバラになって終いには敗走する憂き目になったでしょう。

 そもそも槍衾は攻撃的というより守備的、防御に有効です。

映画等でお馴染みの「騎馬武者の怒涛の如く突進」というようなシーンは後世の作り事のようですが、たとえ突撃力、突破力優勢の騎馬武者が突入してきたとしても槍衾の前には歯が立たなかったと思います。

槍の刃の部分を「穂といいますがその柄のエンドの部分が「石突き」です。その部分もまた鉄などの若干鋭利なキャップ状の金具が付いています。その「石突き」を地に刺して突進者めがけて「穂」を向けていれば相手から槍に刺さってくるという算段です。突進する相手を突き刺してから石突きを地に誘導して相手の力を逃がすのも一手です。

力は相手の突進力を利用しますので、さして力を入れて振り回す必要もありませんでした。

もっとも槍もそうですが当初から柄で「叩きあう」(→たたかう)ことから始まりましたので「刺すより振り回して叩く」が本意だったようです。

 兵農分離を進めてしっかり禄(ろく―給金)を保障しシステム化した軍団を組織したのは織田信長です。

平穏時、農業従事期であっても田畑に帰ることなく「兵」として日々訓練し、組織的な動きをとことん鍛錬させた精鋭の軍団を作り上げました。

その組織の一番の「売り」が「三間間中柄」(さんげんまなかえ)と呼ばれる約6.3mの得物です(「三間間中の朱鑓五百本・・・」信長公記)。

通常2m~3mの槍が主流の時代ですからこれは驚きです。

まぁそれだけの長柄を駆使するには相当の熟練が必要となりますので

日夜筋トレのような体力作りとチームの連携が訓練されたことでしょう。

合戦の時、相手方も槍部隊を前線に進めることは当然ですのでまずは

「槍×槍」で始まります。

ここで戦闘が槍の訓練度、熟達度が双方同じであると仮定してもこの数メートルの槍の長さの差が勝負を左右してしまったのです。

相手の穂先が自分に届く前に既に相手は倒れていますから。

 

画像は上段が女性用の薙刀で当家「なみ」さんの江戸城からの持参品。

中段は「袖絡」(そでがらみ)の一種で賊の捕縛用具です。

下段が穂の小さいながらも威嚇満点の槍です。

どちらも家の中で振り回すに適していませんが。