「自己愛にあふれた人たち」

政治屋さんたちの見苦しい生き様を晒している様子を目の当たりにし、それらを手本としてきた小市民が色々な面でしっぺ返しを食らっているのがこの社会のありさまであると結論付けて間違いは無いと思いますが既出の「保科正之の善政」とはいったいどんなものだったのでしょうか。

 この人の政治的手腕の開花の元はやはり殿さまとしてホイホイされて育てられなかったということに尽きると思います。

これは当人の座右の銘「亢龍有悔」からも十分にわかることでしょう。 

父親秀忠の正妻である「お江」の手に渡れば命の危険があった状況の中、

信州高遠三万石の保科家に養われて小身の藩主となります。

高遠城保科家は武田家からの名門で、幸松(保科正之の幼名)を預かった保科正光の祖父は武田家臣、武田三弾正の一人「槍弾正」と呼ばれた保科正俊です。

ちなみにあと二人の弾正忠は「攻め弾正」真田幸隆、そして相良福岡に屋敷があった「逃げ弾正」高坂昌信です。

 武田家滅亡のあと正光父正直の代に家康に仕え、信州高遠三万石を与えられました。

武田家の恩顧の家系保科家、正光は室が真田昌幸の娘と戦国名門の家でした。しかし子に恵まれなかったことから幸松は見性院の斡旋で養子として当家に引き取られたのです。

本当は妹の子の真田左源太が跡継ぎとして既に保科家にいたのですがその人の事を考えると少しばかり気持ち複雑ではありますね。

 

正之の善政は特筆すべきものがたくさんありますが、まずあげられることは日本の最初の年金制度といわれる藩内90歳以上の人に、身分を問わず、終生一人扶持(1日玄米5合)を支給したことでしょう。果たして当時90歳以上の人が藩内にどれだけいたのか判りませんが画期的な福祉事業であると思います。

こういうことを漏れなく行うということは何より地域の隅々にまで及ぶ現状把握力、情報力、組織力、管理能力が確立していたことに他なりません。

また当時一番為政者として頭の痛い、また「恥」として感じ入る社会状況、時として社会混乱の原因となる「飢饉による餓死者」の問題への対応です。飢饉は自然相手ですので「想定外」はありません。

その対処のため「社倉制」というシステムを確立しました。

これは豊作時に年貢をプールし、飢饉の時にその米を貸し出す制度です。

飢饉が続けばさらにプールした米をそのまま貸し出し餓死者と藩政不満を抑えました。

藩内で手におえないような一揆が起これば藩はまず御取りつぶしは免れない時代です。

よって一揆が起これば「即、なで斬り」という強硬手段で対応した藩が少なくなかったことからこれも画期的な危機管理能力と思います。

藩政では事細かな藩内産業振興策を取りますが基本は庶民の目線に立った政治であったこと、これに尽きます。彼が名君たる由縁です。

 

三代家光が亡くなって四代家綱の輔佐役に任じられてからこれまでの強圧的な家光までの幕政、武断政治を改めて文治政治に変化させていきます。

 当時の災禍といわれれば火事ですが江戸市中六割を舐めつくしたと言われる明暦の大火、振袖火事があります。当時でいえば今回の福島原発メルトダウン級の災禍であったと思います。「車長持」の持ち出しによる各家の避難で市内大渋滞となって焼死者の増大につながったといいますので何か今の危惧する状況と似ていますね。

 正之の各種幕政の特筆すべき点を挙げれば枚挙にいとまがありませんが、庶民に施した例を記せば

火災により難民化した庶民に幕府金蔵を放出し粥を振る舞い、両国橋を架け災害時の避難経路を作り、広小路など火災の延焼防止エリアを設けるなど防災のため、水利のために公共工事に腐心しました。

素晴らしい発案としては江戸に天守は「もはや不要」と焼けた天守閣を再建しなかったことでしょうか。

 

最近、首相官邸前で大きなデモがありました。

これは歴とした庶民の『一揆』です。

為政者は古来より一揆をおこされることを「恥」と思いました。

恥を恥とも思わず一揆を静観黙殺するあの人(当人は自らドジョウとは言っていますが)を選んでしまった我ら、「痛い」ですね。

 

正之の善政は、生誕も育ちもギリギリのところ、与えられた藩もギリの財政で小身、奥さんも若くして亡くし、子供たちもひとりふたりと亡くして、「自己愛」だけで生きている人には到底真似のできない苦労人であったことがやはり微妙に影響しているのでしょう。

 

画像は高天神城「林ノ谷」方面を望む図。

岡部・板倉の墓碑が建つ場所でもあります。(墓碑の画像)

天正二年、保科正之を当初養育した武田信玄の次女の見性院を正室とする、武田勝頼とは不仲だった穴山梅雪が高天神二の丸に向かって攻め上がった攻口です。二の丸は当初から激戦になると予想された場所ですが穴山梅雪の手で陥落させました。