「亢龍有悔 こうりゅうくいあり」 保科正之

しかみ像
しかみ像

保科正之の善政について、今の政(まつりごと)に関わる人たちに是非に見習ってほしいと思う方は多いと思いますが、彼が今一つマイナーでどちらかと言えば歴史の表舞台の人で無いようなイメージがありました。

これは明治以降の薩長を主とした戦争遂行(日清・日露・15年戦争)政権やその政権からの延長にある人々が、戊辰戦争において京都所司代から会津戦争と徹底抗戦した会津藩のステータスシンボルとして崇められて精神的な柱でもあった「憎き保科正之」を歴史の上から抹殺しようとした狭量で恣意的な動きがあったからかも知れません。

なんといっても幕府方の「善政のヒーロー」なのですから。

そんなすばらしい「政」がかつて幕府方にあったことなど国民に知らしめるわけにはいきませんし、彼のとった政策はとても仁政でした。庶民に優しい政治だったのです。他国に戦争を仕掛けるために貧窮を期待する政治とは違います。

 標題、「亢龍有悔」は「易経」と呼ばれる古代の中国、儒教の基本書籍が出典といわれますが、この感覚は五木寛之氏の「下山の思想」にも通ずるところがありますね。

「亢龍有悔」は「イケイケドンドンで常に登りつめようと上昇志向にあるものも必ずどこかで壁にぶつかって周囲からドン引きにされて浮きまくり結局はそれまで自分の取り続けていた姿勢を悔いていくものなのだ」ということでしょうか。

保科正之の墨書、軸に残された言葉ですが、いわゆる保科正之の「阿呆になるまい」という自らに対する戒めの言葉として目のつく所に記したのでは無いでしょうか。

 素晴らしいことは「あの龍(神がかっている超越したもの)でさえもいつかは悔いるのだ」という言葉ですがその反省している龍の様態を記して「自らの指針」としようとしている点ですね。

 「反省が無い」ということも現代の政治家さんたちはじめその生き方をつい見習ってしまう小市民の私たちなのですが、この風潮は私たちの「驕り」の顕著さを現わしていると思います。

子供の時に刷り込まれた、「ドンマイ!ドンマイ!」(気にするな!)、「やればできる、必ずできる」、「決してあきらめるな!」のイケイケの思想がそうさせているのかと思います。

決して悪どい言葉とは思えず、むしろ積極姿勢が前面に押し出されて意気軒昂風すばらしい言葉にも思えます。

しかしこの言葉たちの羅列は登りきった状況、壁に当たって身動きのとれない状況、限界を感じて疲れ切った状況にある者にはいかにも惨い言葉となり、また彼らがそれまで来た道を反省することも修正することも無く、改めることもなくさらに突き進もうとする傲慢な思想なのかもしれません。 

 要は失敗しても、後ろを振り返っている時間は無い、「反省」なんかしている暇はないというところでしょうか。

反省することを忘れたら六道の畜生道を歩んでいることと同様ですね。

失敗してしまったら「最後までやる」なんていうのは妄信と気づいて反省して「さっさとあきらめて次に行く」という転換の心が欲しいですね。その前に人様に迷惑をかけたらまずは謝罪ですが。

何しろ謝ることが下手クソで「ごめんなさい」が言えないか、はたまたそのタイミングが判っていないのか・・・。

どう仕様も無くなった時、皆で「土下座」するというのがお決まりパターンです。

文句を言う前にまず我が身からですが・・・。

 

画像は岡崎城公園の家康公「顰(しかみ)像」。

家康の経験した最初で最後の大きな負け戦で、それは家康31歳の時に遭遇します。

元亀三年(1572)12月22日、三方ヶ原の合戦です。

ブログでも紹介させていただいている成瀬藤蔵正義が討死した戦いでもあります。

戦国最強の騎馬軍団を擁する武田信玄との決戦で、「這う這うのてい」で敗走し、浜松城に逃げ帰った時には馬上でおもらししたという逸話が残っています。

家康はこの敗戦を肝に銘じ後世に伝えるために絵師を呼びその姿を描かせました。

「慢心し驕れば滅びる」の自戒として一生涯手元に置いたと伝えられます。

ホンモノは絵ですのでこの像は石造としての作りものです。

石像は微妙な憔悴したウンザリ感があまり出ていませんが(案外凛々しい)、絵の方はとても味がある雰囲気が出ています。

徳川家康三方ヶ原戦役画像」が正式名称です。

どこのお偉いさんも自分の大失敗に絵師まで呼んでそのみすぼらしい姿を後に伝えようとしますかね。失敗はなるたけ隠して、いいことだけ表に出そうとします。やっぱり大御所様はどこかが違ったのでしょう。