つづき 小櫃与五右衛門の幸せ

お殿さまの何の気なしの「あなた方の『幸福』とは何?」という質問に

小櫃与五右衛門 は2つの彼の「幸せ」について語りました。

それを聞いた殿さま、保科正之は

①カネには不自由していない

②兄である将軍家光のおかげで大名になった

という我が身が恵まれていることを改めて認識しました。

一見するにそんな「有頂天」は無いことなのですが、そんな時、家臣たちはいずれの場合にも従順になり殿さまに異見を言わなくなってしまいます。

正之は「すべてのことが認められ、何でも皆に『理解』されて、ますます自分がバカになってしまうのなら、これは修正しなくてはならない。よってそのような阿呆者にならないように心がけたいものだ」と言ったそうです。なかなかできた殿さまと家臣のエピソードと思います。

 さて精神科医でかつてNEETという語を紹介した元議員さんが、

「政治家とは自己愛にあふれた人たち」と言っています。

国民に、殆ど偶然とはいえ一応は「選ばれた」、国の代表とも思われる議員さんの心情がそうであるのだからその国民や社会もやはり「自己愛にあふれる」までは行かないにしろ、かなりそれに似かよった(「自分にご褒美」と堂々と公言してしまう~まぁとても庶民的ですが~)風潮にあることは仕方ないところかと思います。

裏を返せば三流社会(国民)による三流の政治とでもいいましょうか、所詮は国民性を問われて国際社会からは嘲笑の的となっているワケなのですがなかなかその傾向は修正されてきません。

 新興宗教が繁盛して旧来の仏教が衰退していくという兆候については先日記させていただきましたが、なぜ人がこれまでの仏教から離れて「破滅の宗旨」ともいわれるような教えに入信してしまうのか、それについて記したいと思います。

まず、最初に前提として、これは卑怯であると思われるかも知れませんが、我々旧来の仏教関係者の及ばなかったところは無視して考えさせてください。それについて記述すれば「冥界の螺旋」に入ってしまいそうで恐ろしいのと、ここでは社会全般の考え方の変遷についてスポットを当ててみたいからです。

 

政治の世界に何に於いても『慈愛に満ちた「開けっぴろげ」』を期待する我ら小市民であるわけなのですが、実際、彼らは「自己愛に満ちた閉鎖的な利己主義」が当然であるが如くに蔓延している世界に「在る」ことはこちらも当然に承知していますが、問題はその雰囲気がすでに我ら小国民レベルにまで覆い尽くされてしまっていることなのです。

それは小櫃与五右衛門のいう二つの幸せの正反対なのです。

現代人は「①カネ②地位」がすべてのことを差し置いての「幸福」となって、要は万人が「殿さま」になったということです。

ということは万人が「阿呆である」ということ。一人一人が驕って他への思いやりを欠いて高慢に振る舞うように変化してしまいました。

そこでの幸福=「カネと出世」の図式は、幸福=「勝負に勝つこと」の図式となります。

どうすれば幸せになれるかは「どうすれば勝てるか」「どうすれば他を蹴落とすか」なのです。すべてが勝つか負けるかの世界です。

戦国時代の命をかけた生きるか死ぬかと似ていますが少し違います。あくまでも我が身、が大切なのですから。

そのことは当然に我が道は「天道に生きない」ことに変化したことでもあるのです。 (ブログ既出 天道とは仏道 天=仏)

 以前「勝」とは「樂」で「浄土」とも、と記しましたがこの「勝」は

あくまでも「すばらしい」の意ですので「勝ちとか負け」の対象に無いということです。紛らわしくてすみません。

 だから勝負に勝てば幸せです。ところがこれは殆ど丁半バクチと同じようなことで負けることだって当然にあるわけで当人が「ここぞ」という時に大負けすることも有りうるのです。勝ち続けていればすべてOKですべてが安泰なのですがどんなバクチも勝ち続けることは出来ません。

ですから勝ち続けようと「努力」すればするほど結果、負けた時、挫折した時、心折れた時、挫けた時、壁にぶっかった時に人はそのはけ口をどこかに求めようとするのです。「頑張ったのにどうして・・・」と。

出来るだけ自分の責任を感じないよう否定しないように・・・都合よく。

たとえば「悪いのはあいつらだ、親だ、会社だ、社会だ」みたいに。(実際社会が悪いからというのはまんざら嘘では無いのですが)

 勿論経済活動無くしては我らの生活は成り立ちません。しかし今の世はすべてのことに対して経済最優先の気がしてなりません。

その「経済活動無くしては我らの生活は成り立たない」という言葉が最近の「免罪符」に似た常套句となりそれが後で触れる「電気が無くては生活できない」という言葉に置き換わったりもしています。

 学校での成績の良し悪しが将来の収入の差に響きます。いい高校に行っていい大学に行っていい会社に就職する。それが現代の幸福の近道であるという必須の思想となっているようです。

よって親も先生も必死です。うまくそのレールに乗りきれた者は脱線しない限り何とか親たちの希望通りに社会に出られます。

しかしある子供はPCや携帯端末でオンラインゲームに夢中。大人が子供たちを寄せ集めて作った「学芸会」みたいな show も大流行り。またPCや端末から一瞬も離れられなくなる「ほとんどビョーキ!」の依存症になって社会から脱落してしまう者まで出ています。

最近では「コンプガチャ」とか言う子供心に射幸心を植え付ける悪辣なゲーム指向まで。(業界ではちょっと「やり過ぎた」ということか自己規制に入りましたがまず同様な他の「稼ぐ手段」を模索しているに決まっています)

その上の世代では脱法ハーブなる薬物の氾濫。

国は明らかに違法行為であることに強権を発動すべきなのに国会遊びに明け暮れてつまらない理由をつけながら結果的に放置しています。

ゲームや携帯端末と違法薬物と「一緒にするな」とお怒りになる方もいらっしゃるかも知れませんがこれは「常習性・依存性」という点から同等の症状を生むものです。子供たちに及ぼす害悪も同様。

これらを為すことはすべてその業界の「自己愛」なのです。

おカネが儲かれば何をやってもイイという感覚です。よっておカネが無いことは即不幸せ。稼ぎの少ない奴、仕事にあぶれたNEETは「負け組」の烙印。まさにこんな社会に誰がしたと言いたくなります。

すでに小櫃与五右衛門の忠告がされて約400年。その幸福の意味合いは180度転換されてしまったようです。

 

 

「電気が無くては生活できない」という声を聴きます。今の我らは(日本人に限らずとも)電気に頼った生活をしていることは言うまでも無いことです。

だからこの言葉は当たり前の事を言っていることなのです。

「電気の無い生活をしろ」などと誰も言っていませんしね。

また原発が停まったら「電気が無くなる」なんてことはとんだ詐欺的論法ですね。ある方の試算によればぜんぜん大丈夫と聞きますし。

 

あの拙速な原発再開は「なくても大丈夫」→「あったから大丈夫」の論法変換にどうしても必要な作業だったことがうすうす勘づいている方もおりましょう。

よってその行為を後押しするためにこのタイミングでそんな当たり前の事をぬけぬけと語る人がいるのです。

「電気が無くては生活できない」と。

その人たちの思惑は1つ。ただただ「原発の再稼働」なのです。

 ご存知のように原発は超効率な発電方法でいわゆる「カネの成る木」といっても過言ではありません。はっきり言って無限に大金持ちになるために必要不可欠なアイテムと言っていいかも知れません。

しかし、東本願寺が発信している通り、私たちの望む社会は原発に依存しない(電気のある)社会です。後世子供たちのために重大な責任が課せられてい.ることを今一度考えなくてはなりません。軽々しいその人の任期期間中だけの「責任」ではなく永遠の「いのち」の継続に対する重大責任をそれぞれが背負って生きていることを今一度認識する必要があるのです。

無限の金持ち(もっとも一部の人たち-利害関係人-の)になるための原発か再生エネルギーと呼ばれる自然エネルギーの技術革新か、まともな頭を持つ人ならだれでも判ることなのですが、一旦その恩恵を直接享受した者は過去の夢のような境遇が忘れられずいつまでもしつこく「再開」に固執するのでしょう。

ですからその言葉を吐く人は間違いなく「利害関係人」であると断定してもいいと思います。

 

画像は当山「同朋新聞」7月号の表紙です。

「いまいのちがあなたを生きている」

の宗祖七百五十回忌のメインテーマの左側に今号のサブテーマが記されています。

「時には自分をも見捨ててしまう。

         でも、生まれてきてよかったとうなづきたい。」

 

相当の偶然が重なってこの世に生を受け、今を生きているという現実こそが幸せであるということを再確認させんがためのメッセージと思います。

「幸せ」について常々はき違えて解釈している我らに。

すべてのことに「感謝して生きる」心が蘇れば我々の本当の幸せが近づくのですが。

そのように思考するだけで国民のレベルも国のレベルも上がっていくのかと思います。少しくらいの遠回りを「苦労」と愚痴をこぼさないで努力していけば・・・。

当ブログ三回目の登場ですが生を受けたということ、今有ることの大局的「幸せ」以外の軽々しい「幸福と不幸」論を悪戯に強調する風潮にはこの言葉でもって一蹴したくなりますね。

 

「禍福は糾える縄の如し」

         です。ホントに・・・・。

 

新興宗教に流れる人々の何かに縋ろうとする悩みの原点は「自己愛に満ちた閉鎖的利己主義」に包まれた社会において、その生き方こそが幸福への近道(妄想)と早合点し、「幸福」を100%永遠に享受すべきものであると錯覚した人がそのルートから外れ、当人が思う「順風満帆」から逸脱してしまった時の逃避行動ではないかと思います。

 そういうところから寺が何ができるか思考しなくてはならないのだと思っています。まずこういった思いを発信し、多少過剰でも警鐘を鳴らし続けるのが坊さんの義務でもありましょう。

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コメント: 1
  • #1

    歴史好き (月曜日, 28 3月 2016 00:59)

    乃木さんのように腹を切るのも生き方なのです。。