「我死なば かねて出立つ 極楽へ 

至りついたと 思へ皆人」

辞世の句と云われるものですが、とてもわかり易く、死というものに際して当人の諦観、スッキリ感が伝わって、残れる人々もどこか安心してしまうのではないかと思わせる、ストレートでわかり易い句です。

 

肥後光徳寺住持で東本願寺高倉学寮(のちの大谷大学)で教鞭をとった

「易行院法海」(1768~1834 号は日南、後に橘州に変えました)のものです。

 

院号の「易行」とは易行道とのことです。

聖道門(しょうどうもん)の「自力の修行」を難行というのに対し,阿弥陀仏の願により,浄土に往生して悟りを得る(他力本願)ということです。

 

「念仏」のことでもありますし、だれにでもカンタンに行える修行ということでもあります。

そして「法海」とは「のりのうみ」。

仏法の広大なことを、海にたとえていう語です。

 

法名までも難しい言葉でなく私の様な者でも簡単に理解できそうな語彙ですね。

 松平定信に献上したという「日本外史」がアタリ、調子づいて酒におぼれて理論家ぶって実践しない頼山陽を窘めたという逸話があります。

 

頼山陽といえば若いころ苦労した人ですが、苦労を重ねた人でも一旦成功を収めたことにより怠惰で高慢な性格に変貌するということでしょうか。

 

当大澤寺にも「易行院法海」師による書(掛軸)がございますので紹介いたします(画像)。

こちらは漢文で難しいですが意味はわかり易い正月の詩。

 

一休の句

「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」の様に世間様が「正月!正月!めでたい!めでたい!」の雰囲気の中、「やっぱり本質はコレでしょう」と足元を照らしてくれる詩になっているようです。

 

取路西方歩歩移   路を西方取り歩歩移る

何時宝池踏瑠璃   何れの時か宝池瑠璃を踏む

本年三百六十六   本年は三百六十六日

中有終焉未可知   終焉あること未だわかっちゃいない

 

※中有とは「死→次の生(仏)」の間の事―四十九日