足利義政 犬追物

応仁の乱のきっかけを作った八代将軍足利義政と妻日野富子の代あたりからを「戦国時代の初期」という考えが一般的だと思います。「戦国時代」は西暦でいえば1467~1600、関ヶ原までですね。

 義政の父は六代将軍、籤引き将軍の義教で七代将軍が兄の義勝です。

よって本来、義政は寺に入る予定でいたと思います。

兄の足利義勝が父親の憤死によって(嘉吉の乱)9歳で将軍に担ぎ上げられました。

ところが義勝も早世してしまい急きょ義政が8歳で将軍職に就きました。

強権政治の反動で暗殺された義教の跡を継いだ子供らが将軍の席に着きますがまともな年齢になっていないため再び名ばかりの将軍の取りまきたちが権威を振るう時代になってしまいました。

 10歳で早世した義政の兄の義勝は1994年大河ドラマ、視聴率歴代ワースト1位の「花の乱」では(おそらく今年の「平清盛」が更新しそうですが)死因が落馬説になっていました。

「犬追物」というゲームを弟と興じている中、不慮の落馬によって絶命しました。

 「犬追物」(いぬおうもの)は鎌倉武士が取り入れた、平時の鍛錬の「騎射三物」(きしゃみつもの)の一つで「流鏑馬」(やぶさめ)、「笠懸」(かさがけ)と共に行われました。

現代になって三つのうちで一番簡単でわかり易い流鏑馬が各地で特に神事として行われています。

以前相良観光協会に近い方とお話する機会がありましたが、マンネリ化している「さがら草競馬」のイベントに、相良高校の弓道部等を引っ張り出して「流鏑馬やってもらったら?」とお話して苦虫をつぶしたような顔をされた覚えがあります。

スグに対応することは出来ないにしろ家康鷹狩の陣場から発達した相良にあって「海道一の弓取り」の言葉通り武士のたしなみの一道である「弓」を使っての町おこしの一端は「悪くないのかな」と思いますが。

(コレは合併問題があとをひいている様で、いたずらに静波地区を差し置いて相良のみのスケールをアップすることは憚れるという雰囲気が感じとられてなりません)

「犬追物」は実際に犬を射るものでは無いのですが流儀とルールの理解が難しいこともあり、また動物保護団体からクレームが絶対におこりますので無理ですね。