姉川 高天神衆

高天神城主、小笠原長忠率いる「遠州高天神衆」の姉川合戦での活躍は

当大澤寺HPでもお伝えしている通りで、いわゆる姉川七本槍と後世呼ばれて遠州高天神衆の名を知らしめた一団です。

より有名な、羽柴秀吉×柴田勝家の合戦、「賎ヶ岳七本槍」よりも13年ほど前にその名を轟かせました。

野村に建つ石碑
野村に建つ石碑

上の画像は姉川橋たもとに建つ(野村バス停)現地案内板の布陣図ですがこの手のものの出所は同じものですから主だった武将の名前も同じです。数ある三河武士を差し置いて参加総数もそう多くの出陣は考えられず、また今川家由来の遠州勢を率いる小笠原長忠の名が列するのは驚きです。それは彼らのその活躍ぶりが大いに目立ち、総大将の織田信長からそれぞれ感状を賜っているくらいですので当然といえば当然なのですが。

高天神衆小笠原長忠率いた姉川七本槍についてはここ

なぜ彼らが突出した活躍をしたかと言えば状況を考えれば簡単です。

活躍をしたというより、しゃにむに、がむしゃらに戦わざるを得ない状況だったからなのです。

三田村 血川(地名)に建つ石碑
三田村 血川(地名)に建つ石碑

家康にとって遠州高天神衆はいわばお試し期間中、会社でいえば「中途採用の試雇期間」だったのです。直前に今川方から寝返らせて今川氏真の籠る掛川城を攻めさせたばかりでした。そしてまた、北近江に向かって浅井・朝倉との決戦を控えて、高天神衆をそのまま高天神に置いておけば武田との内通も、よもや思量され、どうしても家康は小笠原長忠を連れて行かなければならなかったのです。

長忠一行もその辺の空気は読んでいて、それだけに人一倍目立って手柄を立てようと立ち回ったと思います。このあたりは先日のブログで記しました匂坂兄弟の活躍と同じだと思います。

忠誠を尽くして勇猛に参戦し数々の手柄を立てた小笠原長忠でしたが

天正二年の武田勝頼包囲による籠城戦では家康の後詰は一向に無く、もはや見捨てられたと解釈した長忠は勝頼に城を明渡してしまいます。

 

藤田鶴南師編 「高天神の跡を尋ねて」 から小笠原長忠の記述

 

城主 小笠原興八郎長忠

天正二年六月、開城とともに長忠は武田方に属して駿河富士の根方の下方荘鸚鵡栖の地に興国城主として一萬貫(十万石相当)を以て迎えられた。この時、弾正少弼(しょうひつ)信興と改名した。

 長忠は今川氏から徳川氏に従った武将であるが、かつて武田氏より秋山伯耆守を使いとして勧請されて赴かんとする時、徳川氏の懇請に応じた経緯もあり、家康は長忠の勇猛な働きを讃えながらも城東郡を中心として七万五千石相当の領地を有している大身に鑑みて常に武田氏と長忠の動向には警戒していた。殊に元亀元年六月姉川の合戦に家康は出陣するに際し、姉川に出馬の後、高天神勢が甲州武田へ従うことをおそれて、小笠原長忠の軍勢の半数を三河吉田城に残して、長忠を残余半分の軍兵を持たせて召し連れ近江に進発したことがある。

天正二年九月勝頼の天竜川出撃に参加した。

同年十二月二十日に長忠は合戸村の高松神社へ神領地、神饌米を寄付した。

天正三年五月には勝頼に従って三州長篠合戦に参加した。

天正四年三月と六年十一月には甲州勢の先鋒となって遠州に出撃し、横須賀に来攻し徳川勢と対陣した。

 天正五年四月三日に大宮富士浅間神社へ長忠は奥方と嫡子の連名にて郷国鎮護と部下の武運長久併せて遠州への帰国を念じて、土地を寄進して祈願状を献じている。

 天正十年三月甲州武田家は、徳川勢と織田勢に攻めたてられて勝頼以下一族郎党滅亡した。長忠は小田原に走り北条氏政を頼って鎌倉に身を隠していたが、天正十八年七月七日小田原落城、北条氏滅亡の際、家康の命により引き出されて切腹した。

家康は長忠の首を浜松に送り、小笠原一門に渡された。

法名を大普といい天竜川の西、来間(蒲)の西伝寺で葬送されたが墓地は不詳である。

 長忠に同意した高天神東退組の人々には散々に流浪の苦難をした者が多かった。後に越前中納言秀康に召し抱えられたものもあり、また松平常陸介頼宣に召し出されたものもある。

 

※天正二年開城の際、勝頼は籠城勢の進退について、それぞれに任せました。武田に付くものを東退組、徳川に付くものを西退組といいました。帰農としたものもいました。

 

 

開城時の西退、東退の選択肢のうち城主である長忠に西退の選択肢はあり得ません。そもそも徳川方にあって「死守すべき城」であり後詰をしばらく待てとの下知だったのですから当然に開城した段階で「仕置・成敗」の対象です。家康の腹の内は三方原でコテコテにやられていますので織田勢の強力な後押しが無ければスグには駆け付けることは出来ず、慎重になることは止むをえなかったかもしれません。しかし長忠の気持ちを察するに「あの時は高天神から近江姉川に遥々駆けて手柄を立てた、しかし今回、この高天神は浜松からほんのわずかな距離でしかないにも関わらず徳川は後詰に来ない。」「やってられない」という気持ちがよくわかります。まして勝頼は籠城組の命を保障して「進退自由」という開城の条件だったのですから。

御前山から見た高天神
御前山から見た高天神