報いを待てや  今川義忠墓

塩買坂 正林寺方面 下り分岐点
塩買坂 正林寺方面 下り分岐点

「夏草や 兵どもが 夢の跡」などと

私が近隣で一番好きな場所、塩買坂を呑気に散策をしていれば、これまで見たことも無かった人工物の残骸が目に飛び込んできました。

おお! 流行りの白物家電、冷蔵庫に電子レンジ・・・以前は「三種の神器」と呼ばれたものではないでしょうか・・・・。

単身者用の小型製品と付近に散らばる漫画本の累々からも推測するに元の所有者は20代の若者でしょうね。それにしても人通りが少ないからといって旧街道筋のこの場に惨いことをいたします。

正林寺 石燈
正林寺 石燈

ここは私の「日没」拝観の一番の場所であることは昨日の塩買坂のリンク先ご紹介の通り。

この坂を下ってスグに正林寺の門前があり、石塔と生い茂る木々からの野鳥の囀りがお迎えしてくれるとても癒される場所なのです。

そしてまた、廃家電が打ち捨てられていた場所はまさに今川義忠が討取られた場所です。

今川家は越前・尾張・遠江の三国の守護だった斯波氏との因縁の場である遠州の地に浸潤を計ります。(斯波氏配下であった朝倉孝景なども遠州・関東まで進出していた時代です)

ところが旧榛原町勝間田城の勝間田氏と菊川市横地城の横地氏が同族同士で斯波氏側について義忠の思惑通りにいきませんでした。

そこで軍事力にものを言わすべく城攻めにかかりました。うまい具合に勝間田・横地の城を落とし、戦勝気分で帰路についた矢先、義忠はここ塩買坂で横地組の放った矢を受けて絶命してしまいました。

「さぁこれから」という時にさぞ無念だったでしょう。

今川義忠 五輪塔
今川義忠 五輪塔

さて源義朝が騙し討ちされた野間について記したことがありましたがその後の野間の大坊での事案に関わる句にこのようなものがあります。

「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」

羽柴筑前は秀吉で、秀吉の所業に対して「いつかはその報いが訪れるぞ、いやその報いがきて滅びるのを待ってるぞ」という恨みのこもったものです。「昔」とは義朝の事件、「主-あるじ」は織田家。「内海」は野間のある地名で「討つ身」とのかけ言葉です。

この句は信長の三男で、容貌は信長に酷似していたといわれる織田信孝の辞世の句と呼ばれています。

織田信孝はあの岐阜城から逃避した挙句、秀吉に幽閉されて自害を命じられます。腹を切りつつも秀吉に怒りをあらわにし自らの腸をつかみ出して,部屋の隅に掛けられた墨梅の掛軸に投げつけたといわれています。

 1583年のことですが秀吉は世継ぎ秀頼誕生後の1595年に一旦世継ぎと決めていた秀次一家大量粛清を行っています。

すでにそれと同様の事をしていた訳ですね。主君信長の遺児と妻、孫たちを磔にしています。

豊臣家の末路は信孝の句の通りになったことは5/9ブログで記した通りです。

 さあ、塩買坂のあの場所に戻ります。

仏教は「因果の道理」を説く教えともいいます、よってやはりこういう場合も当然に当事者はどこかで報いを受けることとなるでしょう。

またやっぱり「報いを待てや」と罵られても仕方が無いこととも。

ゴミの件まったく御いたわしゅうことでございます。

(此の句は常に「私に対して」のものであると感じることが肝要と思います。

人間、生活していれば必ずといって他を傷つけずにいられないからです。

自分本位に行動して他者に恨まれないような生活態度が望まれます。)

 

お役にたてませんで申し訳ありません。地区の清掃員の皆さんのご活躍を大いに期待しております。

 

 画像は今川義忠の墓。息子の氏親が建てた墓と伝わります。

静岡増善寺の氏親の五輪塔よりもさらに小さなものです。故人も怒り心頭のはずですよ。