出奔の末 長篠の手柄 成瀬正一

長篠合戦屏風より
長篠合戦屏風より

長篠合戦図屏風は合戦図数ある中で、信長・秀吉・家康の三者が揃い踏みしている点で比類無い作品です。

屏風は江戸初期になって描かれたものですがやはり本陣主戦は徳川。

家康の長女、亀姫を正室とし、娘婿である奥平信昌の長篠城を武田勝頼軍15000の包囲からの救援後詰が主眼であって、あくまでも信長、秀吉の軍は加勢、合力なのでした。

その中でもこの屏風の主役は家康では無いのです。主役は別にいます。

長篠といえば馬防柵と鉄砲隊ですがその連吾川直前の馬防柵と鉄砲隊の間で兜も付けずに腰に大小のみを差して鉄砲隊を指揮する成瀬吉右衛門正一その人が主役です(矢印)

成瀬正一は当山大澤寺ご縁の成瀬藤蔵正義の弟です。

三方ケ原では兄正義が馬場信春隊の攻撃を防ごうと討死しますが正一は兄に代わって家康を浜松城まで案内しています。以後成瀬家の家督は正一が相続し後代犬山城主、尾張付家老として明治を迎えています。その成瀬家が、御先祖様の勇姿を後世に伝えるために描かせたのがこの屏風でした。

当時は大久保忠世の与力として日下部定好と共に合戦に参加しています。

武田方の攻め手の旗差と騎馬武者を即座に選別したとのこと。

正一は若い頃、兄正義同様、家康の元を出奔しています。正義は同僚を斬って逃げた「出奔」と伝わりますが弟の出奔の理由は判りません。いい意味で言えば「武者修行」なのですが・・・

武田信玄→北条氏康と放浪して結局兄同様、徳川家に帰参していますが、甲斐では第四次川中島の戦いで、討取られた諸角虎定の首を後に井伊直政の家臣となった石黒五郎兵衛と共に取り返して、信玄から褒美(黒駒の知行)を与えられています。

07年の大河ドラマ「風林火山」では諸角の首を取り返す場面がありましたがちなみに成瀬の名は出ませんでした。

あっちこっちと主人を変えるのはそのドラマの初期の山本勘助と同じです。

よって元の奉公先の戦術、システムを熟知していることは当然です。

天目山後の織田信長による武田勢殲滅作戦に正一は石黒五郎兵衛はじめ旧来懇意にして同僚でもあった多くの甲州残党を遠州の桐山の地に匿います。

このことが後の井伊の赤備えの元となったとも。

また正一は兄正義の出奔の地である、ここ遠州に相当詳しかったのか高天神城を囲む六砦をまとめる奉行を日下部定好と務めていますしその後の田中城の調略にも働いています。

正一の長子(正義の長子説もいまだあり)、犬山藩初代藩主の成瀬正成が後に根来組と呼ばれた鉄砲隊を組織していますがこの長篠合戦のイメージから成瀬家=鉄砲隊構図が一時期出来上がったものでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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