長篠の鉄砲  山県の最期 土屋の死地

朝日新聞の記事
朝日新聞の記事

5/14朝日新聞朝刊から。長篠合戦でこれまで通説だった鉄砲3000丁による

「三段撃ちは無かった」

というものです。

勝敗を分けた戦術の違いについて広く語られていましたが(鉄砲隊と旧態依然の騎馬軍団)昨今ではその考えは虚構だそうです。

以下記事より。

 

鉄砲の三段撃ちについて「鉄砲の特性からいって(火縄が消えること、詰まり、からみ等メンテの問題が頻繁に発生)、各部隊急ごしらえの多人数で一斉に一定間隔で撃つということなど絵空事」と断じ、鉄砲自体の数量も1000丁+αで正確な数量はわからないとのこと。

 

(太田牛一の「信長公記」には「千挺計~千丁ばかり(約千丁)」の記述で「三段撃ち」を推す記述も見当たらない)

また馬防柵の構築も信長のオリジナルでも何でも無く一種の「野戦築城」とのこと。やみくもに武田騎馬隊が無意味に足の取られる湿地を経て馬防柵に突っ込んで行ったことも疑わしく、「武田方にも鉄砲隊は当然に活用されていたし当時は騎馬武者であっても下馬して戦う」

とありました。

勝敗因については武田15000×信長連合軍38000という絶対的兵数の違いが大きかった。それだけ。

設楽原がいわゆる「長篠合戦」の本戦場。

連吾川の湿地帯を挟んで対峙したといいますが双方合計で53000人が動員されたといわれる中、相当狭く感じます。

 

馬防柵三列重ねてその後ろ側に鉄砲隊含めて配列するなど山の斜面上まで味方同士が「押しくら饅頭状態」だったことでしょう。下手すれば裏山まで・・・

 

私がお邪魔したときに地元の方に伺いましたが、かつて畑を耕していたら「鉛の弾がゴロゴロ出てきた」とおっしゃっていました。

 

やはり数の論理でしょうね。

家康軍が簡単に回り込んで武田軍の横腹や背後を突くことができましょう。姉川と同じ作戦です、きっと。