梟雄 2

稲葉山城から長良川
稲葉山城から長良川

安吾の「梟雄」での道三と義龍の関係は「義理」の父子でした。親子関係が劣悪で道三が無能呼ばわりし近くに寄せなかったという描写がありましたがこれは道三が追放した土岐頼芸の側室深芳野(みよしの)に道三自身が一目惚れして側室にし、その深芳野が産んだのが義龍であることから後世になって言い古された下世話な邪推が、これまた案外説得力があって面白かったからでしょう。よって本説は実の父子。嫡男義龍は道三が愛した下の弟二人を家臣に抹殺させてから、そして父殺しです(1555年)。道三も凄いですが義龍も凄すぎます。1541年に甲斐では晴信(信玄)が父信虎を追放しています。義を欠きすぎ自身を見失って家を滅亡されるのは困りものですが「子が父を超える」ということは本来そうあるべきと思います。私もそれを期待しますが、放逐される前に早く身を引きたいですね。 どの世界でも言えることで何も年配者諸先輩を侮っているのではありませんが、若い世代の台頭が無いことの方が不自然であると思います。政治もスポーツも。

 

馬の背登山道 凄い案内
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斉藤義龍の身長は六尺五寸と言われていますので65×3.03cm(1寸)、約197cmと現在においても大男。そして今では何でもない病気ですが古来から差別の対象だった「らい」を患っていたといいますので父親が毛嫌いしていたというのは当時としてはもっとものことかと。また古くから我が国には「鬼子」という思想があります。 発育良好で大きく産まれたり、歯が既にはえていたり、親に似ていないという子供が「鬼子」と呼ばれて殺されたり捨てたりした風習がありました。ただ縁起が悪い、気味が悪いという理由からです。今なら大きく育つことほど嬉しいのですが。

親が嫌っていつ始末してやろうかと機会をうかがって育てれば子も親を嫌って育つでしょうね。

07年大河「風林火山」でも滅ぼした笠原清繁の正室を甲斐の名門小山田信有が側室にしますが、ここからは創作、生まれ出た子供が自分に似ていないことに苦虫を潰し、結局その側室に寝首を掻かれてしまうという脚色でした。書き手は読み手のそのように登場人物の面白おかしい物語の趣向を押さえているのでしょう。

 

稲葉山城、山頂到着時しばらくは動けませんでした。こんな城を落とせるワケが無いと思いますがそれがどっこいあのころの人々のパワーは今とはまったく違うのでしょうね。

つわものの挑戦記をお待ちしています。