高天神崩れ追記 御前崎

天気予報とは裏腹に当地区絶妙のいいお天気でしたので、久しぶりに「足を棒」にしようと無理やり御前崎下岬でランチにして、その後坂を上がった「猫塚」前で連れとは解散しました。海伝いに歩くことはしばしばありましたが、上岬からバス通りを行くのは初めてです。

この猫塚周囲が高天神崩れの松林家一族が移り住んだ場所の様です。当初松林家は通称「澤」と呼ばれていたとのこと。台地の上ですからどちらかにはそれらしき水の出はあると思いますが、水こそ大切にせよというその家の先立のメッセージなのかと思います。近隣には苗字として「小澤」「大澤」「澤入」も目立ちます。背後の森にはかつて遍照院というお寺があって十一面観音堂のあった場所。今は観音堂の跡地と仏像のご縁が記された看板が1枚立っていました。観音像は近くのお寺に安置されていますがこの場所には夥しい数の石仏、石碑が建っています。

目立つのは「金刀比羅」の文字。遍照院は真言の寺と聞きますので金刀比羅宮との関連は強いと思いますが何よりもこの御前崎という海運と漁師の町にとって古くから厚く祭られてきたと推察できます。海難者の墓標もありました。バス通り、かつての商店街を歩き続けてわかったことは古い家ほど同族でまとまった墓地があるのかと。要は寺の墓地では無く住居の傍らの区画です。目についたその「区画」にお邪魔し、墓碑石碑を拝見、各家の表札も眺めながら歩けば小さな地区(部落)ごとに比較的同じ苗字が固まっているように思いました。

明治以降建立の金毘羅さん関連の石碑が圧倒的に目立ちますが気が付くに2点「善光寺」を崇敬する碑と墓石を発見しました。画像はバス通りの小さな祠の前に建つ「善光寺如来」の碑です。甲州勢侵攻の跡に諏訪神社や御前崎旧浜岡、池新田の桜池伝説(諏訪湖と繋がるという)は聞き及びますがこの地には同じ甲州勢でも北信濃の臭いがしてきました。善光寺といえば「一光三尊阿弥陀如来像」。私の名でもある「一光」の名の仏がこの祠におわしますと思えば是非にと戸を開けたくなりましたが、今回は遠慮いたしました。なにせ、道路をあっちこっち行き来し表札を見つつ墓地へ立ち寄り、地区住民に少々不審に思われている感がありましたから。

とにかくこの道を歩く人はもはや皆無の様。そしてまた人が歩く道になっていないことが判ります。冠水を防ぐため道路部の中心をトップになる様に作ってありますので人の歩くところはどぶ板の上になります。メンテしていないどぶ板の上を歩くことは酷く恐ろしいもので、奇跡的に乳母車を押して歩く年配の方とすれ違いましたが、歩き憎い道路との段差のある歩道らしきどぶ板を避けて車道を進んでいました。年配者被害の交通事故が絶えない理由がここにありました。旧遠渡坂(おんどざか)から相良方面を望む景色は棒になった足に清々しさを与えます。

相良に帰って除草剤を散布したその後、思わぬ雷雨。それも近所に落雷したかのような・・・運がイイやら悪いやら。