恥   初心忘るべからず

前回の米大統領民主党予備選の「クリントン×オバマ」で「Shame  On You!」~恥を知れ!~とまで言わしめたクリントン氏の演説も選挙が終われば今はお二人は何事もなかったがごとくです。その言葉があまりにも相手の意見や、もしかするとすべての人格をも罵倒して完膚亡きまでに打ち倒すというイメージがあるためにその修復されたオトナの関係には驚きがありました。

あの言葉の意味について考えます。

 

「恥」という字は辞書によると「現実の自分の姿が理想とする姿に比べ、劣っていることを自ら認識して、不快または悲痛に感じること」です。

ポイントは「自ら認識して、感じる」ことなのですが、仏教的な、根本的「恥」があるとすれば「自ら認識できずに、感じられない」ことであると思いますので(仏教は「気づき」を促す教え)普通の場で使われる「恥」というものはむしろどんどん「かく」べきでありそれを忘れることなく常にそれを思い、恥の数々を経験として積み重ね、己の道を切磋琢磨していけ、ということになります。

結果「恥はどんどんかきなさい」です。

 

さて、世阿弥の能の集大成の書「花鏡」に有名な「初心忘るべからず」が

あります。

 是非とも初心忘るべからず
 時々の初心忘るべからず 
 老後の初心忘るべからず

折に触れて耳にしたその「初心」の意は世にいう「当初のこころざし」などという意味はありません。ですから「初心に戻って」などというと本来の「初心忘るべからず」からは反対の意味になってしまうかも知れません。

私はその「初心」に「一般的な『恥』」をあてています。

世阿弥の言う「初心」を人の時間的変遷でいえば、気がついてから死ぬまでの間、要はほとんど一生の間が「初心」です。生きていれば次々と色々な

事象が巡りその年年においてやはりその体験は初心であり経験です。

初めの頃は何に於いても拙く未熟で未完成、時間が経つととても恥ずかしく、もしかすると穴があったら入りたいようなポカをもしでかしたものです。ですから一言で言えば「初心=恥の思い出」なのです。よって世阿弥の芸への思いを我ら人生に準えれば・・・「我らは一生の間恥をかいてそして死んでいく身ですがそれぞれの時節でかいてきた恥を忘れることなく常に念頭において修正し次のステップに向かっていかなくてはならない」裏をかえせば「かいた恥を生かして生きなさい」→「恥を認識して生きればどんどんステップアップできる」→「大いに恥をかくべき」という構図になります。

よってクリントンさんのその言葉はオトナの言葉としてとれば

「恥・・・初心=経験の浅さ」を指摘した程度と仏教的に考えれば腑に落ちます。