陣台山墓地 つづき

かつて陣台山墓地の改葬工事前に管理者説明会に呼ばれて

概略を聞き、墓地の掘り起しに立ち会うなどしてはじめて

正面からこの墓地にかかわるようになりました。

(こちらは海岸の砂丘地のため遺骨は原状を殆どとどめて

いないようでした)

 

この墓地の在り方は、当山ご門徒様の傾向でいえば

(中にはこちらを本墓地とする御家もありますが)

当山境内地の本墓地に何らかの理由で「入れられない」

という理由もあったかも知れません。理由は多種多様で

一概には言えませんが。

また各地からやってきた漁業関係を主とした就労者、海難者、奉公人、寄宿人、行旅死亡者の他、死産や生後間もなくして亡くなった子供たちも火葬せずにそのまま埋葬したとも聞きます。

 

さて当山過去帳を紐解くと

 

明治22 26名

  23 40名

  24 16名

  25 20名

明治23年に亡くなった方が突出しています。人口が今のように多く

無かった当時(現代の約1/4)で今の倍以上の方が亡くなっています。

そしてこちらの墓地ではこの年(明治23年)が刻まれた墓石が目立ちます。

これはまさに「開国」のもたらした大きな弊害と思います。

明治維新より明治16年~明治23年までの7年余がいわゆる「鹿鳴館時代」と呼ばれていますが開国以来欧米列強に倣えと様々な形で欧米の使節技術等を受け入れ彼らも゛新しい市場゛を求めて大挙してやってきました。そこで惹起されたのが「パンデミック」です。

江戸幕府の鎖国の時間が終了し病原体(コレラ・赤痢・チフス・天然痘・・・)への免疫がまったく無かった人々の多くが、世界中から流入した様々な病気に罹患したのです。

江戸期にもコレラ等伝染病の発生はありましたが何より関所の廃止、インフラの整備(橋、道路、交通機関)により人の流れが頻繁となったところへ世界中の流行り病(過ぎたる欲望を求め続ける思想も含めて「はやりやまい」)が一気呵成に国内に入り込みました。

日本各地でその流行病が蔓延し、この地で一気に爆発的に広がったのが明治23年と推測します。

 

~それらの病原体が入ってきたからこそ、その後の北里、野口諸氏による

理化学細菌学という分野が開花したのでしょうがこれもまた731部隊(石井部隊)の非人道的行為にも繋がっているのが歴史の皮肉です~

 

推測というのは過去帳のすべての方々の備考欄に亡くなった原因について

記されていないからです。

しかし数日違いの親子の死没であるとか、備考に「流行り病」との記入がそのことを物語っています。

「流行病」による病死者をこちらに埋葬した理由を推測しますと原因不明の伝染性の病には差別的扱いや風説が拡大します。よってこの地区で言う土人衆(近隣のお付き合い、葬儀に関わる全ての手続きの代行。埋葬に力を貸したので「土人」か?)の付き合いも敬遠されてしまいます。火葬すれば早いと思いがちですが火葬はそれなりの時間と資金が必要な方法です。当時、通常の葬儀式で火葬を選択すれば燃料材の用意と1日近くかかる火葬管理者、搬送者の手配にたくさんの参列者の参拝など手配が煩雑で多くの時間と人の手をかけてしまいます。車社会の現代とは違って葬儀そのものの時間がゆっくりと進んだ時代です。火葬すれば煙にのってより病気が蔓延するといった誤解もあったかもしれません。

よって一旦その「流行病」での病没となればそのシステムは一気に壊れ、命こと切れれば故人は簡単な葬儀ののちに大八車に乗せられて前もって掘られたここの墓地に埋葬されたと思います。だれもが関わりを避け、亡くなった人は勿論、もしかすると病人を出した家そのものが忌避されたかもしれません。当時は地域社会を守るためそのようにせざるを得なかったのでしょうが痛ましい状況がこの地を襲っていたことと思います。

さて、「維新」だとか「開国」だとか夢のような未来を吹聴して言葉が踊っています。何かを変えようと無理をすれば必ず大きな迷惑を被るのはいつの時代も民衆であったこと、それを歴史が証明しています。

今度の何かの行為による反動、パンデミック、未知なるものの脅威からは何とか避けてほしいのですが、経済一辺倒の社会では冷静な判断をすることは難しいでしょうね。