高天神城お散歩ツアー 相良に集合!

募集      

各自車両持ち込みです。当方日程調整のうえご案内いたします。

      参加費は無料です。

    

日にち     適宜    

集合      相良大澤寺 時間コース等詳細調整

お散歩ガイド  住職

 

フルコースの例

行程 900本堂参拝→本堂その他紹介→930出発→940相良城跡→

   1000金毘羅神社下通過、相良サンビーチ通過→1030池新田渥美    

   源五郎首取り坂→1100横須賀城散策→1200~1245昼食(場所未  

   定)→ 1300武田勝頼うたた寝松・布陣跡→1310高天神千人塚    

   →1315平塚刑場→1330渡辺金太夫照屋敷跡→1340追手門より  

   登城→1400本曲輪と大河内石窟・井戸曲輪・二の丸・本間、丸

   尾墓碑→1430馬出曲輪、甚五郎抜け道→1500搦手門→1530板

   倉、岡部墓碑→1540渥美源五郎屋敷跡→菊川段平尾→塩買坂→ 

   正林寺、今川義忠墓→相良1700着予定 

  

 

すこしばかり解説

世の戦国ファンに多くのサイトで紹介されている高天神城。         概略は各御仁、適宜御調査おまかせするとして、割愛。

ここではこれまで省略または見落とされがちと思われる場所について

ツアーに沿って紹介させていただきます。

また高天神城の戦いが混乱しがちになりますので

 

元亀二年 武田信玄による徳川方、城斥候戦①

天正二年 武田勝頼による徳川方、城攻め②

天正九年 徳川家康による武田方、城攻め③     と記しました。

                                              ★金毘羅神社 ①②                                   現相良小学校で家康鷹狩陣場に建てられた田沼相良城、現相良市場(いちんば)地区にあったと伝わる初代相良藩主、本多忠晴(本多忠勝の曽孫)の館、それ以前元亀二年武田信玄の命により高坂弾正忠昌信の「湊の脇に城 縄張り也」から推測し、地元では「陣台山」と呼ばれる金毘羅神社山頂がその櫓台、城跡と勝手に考えます。

本多忠晴侯墓は大澤寺が見える小堤山にあります
本多忠晴侯墓は大澤寺が見える小堤山にあります

★首切坂 ②~③                                       渥美源五郎館跡は高天神城搦手門の東側にありますが首切坂はなかなか紹介されていませんね。家康が感状を出したといわれる源五郎手柄の場所です。天正六年十月横須賀衆と呼ばれる渥美源五郎は相良城に斥候へ、その帰路桜が池近くで武田方斥候と朝靄の中遭遇しました。源五郎勝吉の機転による芝居がかった行動で武田方を殲滅したという話が残ります。一説に大坂冬の陣、「夜討ちの大将」塙団右衛門も横須賀衆の一人だったとききます。(首取坂には関係ありませんね)

                                                                                                  ★横須賀城 ~③                                      浜松城の前哨、馬伏塚城の大須賀康高に家康が高天神城に対峙する城として作らせた天竜川玉砂利の美しい城。大須賀康高の長子は僧となったため跡継ぎは娘の嫁ぎ先榊原康政の子忠政が入りのち「大須賀」は榊原に吸収されます。今は真宗大谷派善福寺さん(大須賀康高長男の開山)が大須賀姓を名乗っています。

                                                                                ★武田勝頼布陣の惣勢山砦跡  ②

勝頼の「仮寝(うたたね)の松」とともにあまり紹介されることがないようです。ほとんど通過するだけの場所ですが天正二年を想い起こしてください。松も幾度となく枯れて更新されているようです。砦跡は殆ど茶畑になっていますがこちらから東の尾根伝いに武者走りを通し北は安威砦、火ケ峰砦、能ケ坂砦、南に獅子ケ鼻砦、中村山砦とつながります。街道筋に木製の標識と新しい石版があります。

この辺りを昔から、乳母懐(うばふところ)~日だまりの暖かい所~と呼んでいたといいます。勿論乳母は砦の城将の子の世話をする女性のこと。

 

※乳母懐(うばふところ) 日本各地にその呼び名の地名はある様です。

 近辺ではかつて隆起する前の横須賀港~現在の横須賀城撰要寺西側

 あたりの畑~荒海遠州灘で唯一の避難港であったことからこちらの港 

 を「うばがふところ」と呼んでいたと聞きます。

                                

★千人塚と平塚刑場  ①②③                  

徳川軍に切り込みをかけ「もはや」と切腹寸前に捕縛されたのち他の者たちが解放されたにも関わらず一人だけ「やはり切腹です」と断じられて腹を切らされた孕石元康もこの刑場に引き出されたのでしょうか。川下にひらけた「南」の方角を向いて腹を切ったと云われます。千人塚は天正九年の戦いの戦死者を葬ったと聞きますが下小笠川の氾濫によって流れが変わりほとんど河川敷の様な場所になります。

      

★渡辺金太夫照(てらす)館跡  ①~②                                                                  高天神城搦手門の守備方。勝頼の説得により開城後は城主小笠原長忠と同様に武田方へ。後に高遠城の戦いで奮戦討死。徳川配下の時代は高天神衆として掛川城今川氏真攻め、元亀元年の姉川の合戦にも出陣。姉川では高天神衆、姉川七本槍として名を馳せ織田信長より感状を送られています。超ドハデな指物で有名。館跡は渡辺池のほとり。画像は姉川合戦屏風(福井県立博物館)の渡辺金太夫照 朱の傘に金の短冊 の指物

 

ちなみに姉川七本槍(高天神衆)とは

☆渡辺金大夫
門奈左近右衛門
伊達与兵衛
伏木久内
中山是非之助
吉原又兵衛
林平六

                                                                                                          ★本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清 ②                      難攻不落と呼ばれた高天神城の一番の弱点は二の丸です。二の丸櫓にて指揮中の兄本間氏清は武田方穴山梅雪配下の西島七郎右ヱ門の鉄砲で撃たれます。その日のうちに兄に代わって櫓に立った弟の丸尾義清も胸部に被弾し絶命します。丸尾姓も本間姓も旧浜岡町に残ります。大澤寺本堂の襖絵は池新田(浜岡)丸尾家より絵氏丸尾月嶂を招きました。

                                                               ★甚五郎の抜け道  ③

武田軍の軍監横田甚五郎尹松(ただとし)が躑躅ケ崎の武田勝頼に落城の報告をするために脱出した尾根道です。チャレンジすれば二の丸下の「林ケ谷」に降りられますが足元が悪すぎておすすめできません。

(道の酷さは小笠山砦南側の尾根伝いほどではありませんが・・・・)

横田甚五郎尹松(逃げの甚五郎)は父を横田高松(たかとし)、祖父に原美濃と横田備中を持ち正室に山県昌景の娘、武田家中の名門。のちに徳川幕府旗本となります。徳川家は武田名門好きですね。

 

★板倉・岡部墓碑  ③                      

板倉定重は天正九年(1581)三月二十二日二十八歳で討死。

「三河物語」で有名な大久保彦左衛門忠教の配下で従軍。

弟に家督を継いだ江戸町奉行、京都所司代の名奉行板倉勝重がいます。

岡部元信(真幸)は筋金入りの軍師。やはり同年同日に大久保隊に打ち取られます。岡部家は藤枝市岡部を出自。今川譜代家臣団では名将中の名将。遠江三河尾張平定に尽力し対織田方の橋頭堡、尾張鳴海城在番時代永禄三年(1560)、桶狭間の件。主君今川義元が討たれた後も抵抗し続けて、主君の首と引き換えを条件に開城します。駿府へ帰還する途中、帰路の駄賃と刈谷城を攻め、水野信近を討ち取り城を焼き払ったといいます。
義元死後の永禄十一年(1568)、武田信玄の駿河侵攻によって今川氏真が駿府を追われると降伏して武田氏に仕え、高天神城の守将を任せられました。

 

★菊川段平尾

下耳川橋南側には大澤寺の前身の本楽時があった場所と推測されます。

天正二年武田勝頼による徳川方高天神城攻めで炎上(小笠原兵乱-大澤寺文書)しました。

 

菊川平川地元史家堀川録朗氏の「菊川むかしむかし」より

~「伝説の寺とお堂」 段平尾~

 内田小学校南の交差点から平田方面へ百数十㍍ほど下った東側あたり  

 に昔、本楽寺という寺があったそうだ。また、その西側、段平尾の丘 

 の上には蔵光寺という地名があり、その近くに小さな塚があるが、そ 

 の寺の跡だろう。そして、文永寺(段平尾)の東百㍍ぐらいのところを 

 「ミダンドウ」というが、これは弥陀堂であり、かつては阿弥陀様を

 まつったお堂があったにちがいない。こうした話を少年の頃から父に

 聞いていたが、これをあきらかにする一片の資料も無く、長い間幻の

 寺あるいは堂としてかたづけていた。ところが、本楽寺については二

 年ほど前、東平尾の西林寺の住職であり、堀之内幼稚園長である藤本

 照雄先生から「阿弥陀如来御絵像由来」と称する文書の写しをいただ

 いたが、そのなかに書かれていたのである。その内容を要約すると

 「天正三年(天正二年の誤りか)六月二十八日、武田勝頼が高天神城を 

 攻めた際、本楽寺が兵火にかかり、御絵像が煙とともに舞い上がり、

 強風に流されて東平尾の『橋の元』(屋号)の榎の木に掛かった。それ

 が相良の大澤寺の僧西念のところに届けられた。西念は、父浄了が建

 立した本楽寺である故、この御絵像を携え、その跡を訪れたが、住者

 があったので、西林寺を建てた。また本楽寺は永禄元年(1558)に三

 河国安城赤松の本楽寺を改修した」とあり、言い伝えが払拭できない

 ことを強く感じたのである。(堀川録朗氏)

 

*女、子供と油断

本楽寺跡の南西約200mに国指定文化財の高田大屋敷遺跡があります。

この屋敷は源平盛衰記(巻三十五「巴関東下向の事」)に巴を打取るにあたって「その聞こえし武勇」には危惧しつつも「やはり女」と油断して望み、馬上組打ちにかかって逆に巴に首をかかれた内田三郎家吉(平家物語では恩田八郎師重)の屋敷跡です。大澤寺(本楽寺)初代の今井権七郎が祖先今井四郎兼平の妹、巴が武具を捨てる直前に打取られた内田三郎家吉とその末裔の屋敷の鬼門の方向(北東)に寺を建てて菩提を弔おうとしたことがうかがえます。

 

※「覚一本」より巴の描写 当時28歳の巴です。

 「中にも巴はいろ白く髪ながく、容顔まことにすぐれたり。

 ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、打物もっては

 鬼にも神にもあはうどいふ 一人当千の兵者なり。

 究竟のあら馬乗り、悪所おとし、いくさといへば、札よき鎧着せ、

 大太刀、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。

 度々の高名肩をならぶる者なし。されば今度も、おほくの者ども

 おちゆき、うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり。」
 

★塩買坂

ブログ1月3日「日没無常偈」参照
★正林寺と今川義忠

足利家名門の今川六代目当主。駿河国守護職。応仁の乱は東軍で上洛。

上洛中に幕府政所執事の伊勢盛時の妹の北側殿と婚姻。勝間田城と横地城を斯波氏への内通を理由に討伐し戦勝気分で凱旋の帰路ここ塩買坂で残党との交戦となり流れ矢に撃たれました。84年後、孫の今川義元が桶狭間で撃たれましたが皮肉的結末です。共通する点はやはり「大勝の油断」でしょう。

エリートに限らず何事も調子に乗ると足元すくわれるのが常ですね。

その子今川氏親(龍王丸当時6歳)によって後年正林寺が建てられます。

 

※伊勢盛時 伊勢新九郎、のちの小田原北条の祖、北条早雲

            

お願い

☆ バスでの移動とはいえ主に徒歩と山登りです。

   (たかがハイキングされどハイキング)

   高天神城は国指定の文化財ですが整備が行き届かずまた各所で

   倒木、崩落が頻発しています。

   このツアーは営利を目的としたものでなく業務として安全に

   関してシステムとしてそのノウハウを持ち合わせていません。

   安全管理に務めるとはいえ最低限であり限界があると思います。

   恐縮ですがくれぐれも自己の責任にて安全管理を行う旨ご了解

   いただき御参加のご判断をされますようお願いいたします。

   初めての挑戦だけに不手際もいっぱいと思います。

 

☆ 遠方の方に駿遠とわが町の素晴らしさを見てもらいたいというのが

   ツアーの主旨です。集合が9時になっておりますが事前に相良の   

   町を散策ください。

 

☆ 雨天は予定を大幅に変更いたします。

 

   詳細、申込みは「お問い合わせ」フォームにて