琵琶湖の近つ淡海(近江)に対して、浜名湖の遠つ淡海(遠江)
ここ相良の語源は「砂礫 」?
天正十年(1582)家康が鷹狩の陣屋を建て街を作り人々を呼び込む以前、
~文禄四年(1595)の段階でも
「町割仰付られ候へども人少に御座候て・・・」(当山文書)~
現在の相良の人口密集地は砂礫の湿地帯に葦という風景でした。
拙寺も徳川家康の命で相良新町に下りてきましたがやはりその頃
新町に来た御門徒さんの伊東家の伝えに「我が家が七件目」とあります。
また、ご門徒さまで当家と同じように「近江出身の遠江住」はとても
多いように感じます。(平成以前は周辺に「近江屋」の屋号が2件
ございました) 他は甲州、信州の出自が多いかと・・・(諏訪神社社紋
「梶紋」系が多いようです)
城と戦国浪漫 shizuokaは静岡県教育委員会等県内関係者の肝入りで静岡県各地の文献や監修の小和田哲男先生等識者書物をベースに検証して立ち上げたサイトです。相当の気合い度がうかがわれますし、他県には今だこの手の試みはお見受けしておりません。
小生も高天神周辺の砦巡りに活用させていただいております。
遠江 27万石 駿河 17万石 伊豆 10万石 甲斐 25万石
信濃 55万石 飛騨 4万石 美濃 58万石 相模 19万石
武蔵 80万石 尾張 52万石 三河 34万石 近江 83万石
紀伊 40万石 上野 46万石
さすが京の穀倉地帯近江は石高大きいですね。ほとんどが琵琶湖に占められているにもかかわらず・・・基本が水の手であることは間違いないです。
貫文
天正の初めころまで使われた単位。金銭にして一貫文は一千文
土地としては一貫文は十石 一萬貫文は十万石 一文100円換算
石数
元亀年間における遠江の石高は二十六万八千八百石で、天正に及
んで二十七万石といった。
当時の城東郡は六万一千石で、榛原郡が三万石程度。
のちの慶長九年の検地の時、伊那備前守忠次が遠州総検地をした時
の石数の算出は以下。
六尺を一間とし、方一間を一坪として一反歩が三百坪、
一坪の収穫量 籾米一升で一反あたり三石となる。
うち種子分として五分、欠米分として五分、年々の損耗一割、
計二割を差引いて残り二石四斗を脱穀して五摺として一石二斗の
玄米を得る。これに反別を乗じたものをその土地の石高とした。
たとえば上田二町歩、石盛り十二ならば石高二十四石となり、
上畑六反歩、石盛り十ならば石高六石となる。検地によって田畑を
上・中・下の三段階に分けて位付をして面積を量り、秋に坪刈をし
て収穫量を調べた。
領主への年貢は等差があって石高の四割から六割で、これを四ツ、
四ツ五分、六ツなどといった。
計算苦手で理解不能に陥ります。
それにしても領主の取分が多すぎます。これで後世太枡騒動のごとく
インチキが罷り通ったらやってられないですね。
※太枡騒動以降代官として善政をおこなって名をあげたのが小島蕉園です。
近辺旧地名呼名(石田氏によるサイト)
今川から武田の領地と変わり相良川(萩間川)西岸の陣台山付近にあったと推測される旧相良城は小山砦(吉田町)と滝境城(相良片浜)の延長線にあって高天神城(掛川、旧大東町)への兵糧の拠点となりました。
高天神は永禄、元亀、天正と「東海一の弓取り」を名乗らんとする
今川義元、徳川家康、武田信玄・勝頼が覇権を争ったその中心地でありました。
今となっては内陸に見える高天神城のある土方地区。
安政地震等による土地隆起前の当地は遠州灘の入り江がせまり海路は
城の手前まで繋がっていましたが海流の強さ(穏やかな駿河湾と波風の強い遠州灘の違い)による不利と西の馬伏塚城の牽制があったため
相良は絶好の武田軍のベース砦となったのです。
1 高天神城
2 諏訪原城
3 掛川城
4 馬伏塚城
5 横須賀城
6 横地城
7 相良城
8 滝境城
9 小山砦
10 田中城
11 花倉城
12 持舟城
13 丸子城
14 駿府城
15 久能山城
16 浜松城
17 龍眼山城 18 勝間田城
① 小笠山砦 ② 三井山砦 ③ 獅子ケ鼻砦 ④ 中村山砦
⑤ 能ケ谷砦 ⑥ 火ケ峰砦 以上高天神六砦
⑦ 火剣山砦(対諏訪原城)
ア 塩買坂 イ 国安 ウ 桜ケ池・首取坂
⑦ 火剣山砦(対諏訪原城付城)
お城好きの皆さんの「高天神がなぜ天下に響く名城なのかわからない」というコメントをよく耳目にします。
なるほど標高も130㍍とさほど高くもなく遠方から見ても際立った堅固さも感じられないただの山の様にも見えます。稲葉山城(岐阜城)の豪快さ、岩村城の石垣の華麗さはありません。
追手(大手)、搦手の南北の登城口の一城別郭ならではの攻撃不利守備有利のつくりと断崖は城自体の堅牢さであり残存する遺構は特筆すべきものですが何よりこの城は単にこの城だけでは語れないのです。
家康が苦心してつくりあげた包囲網とそれらにかかわる数々の劇的出来事が大きなスケールで展開されました。
今川・武田・徳川と東海道を制さんがために各家をかけた主戦場でもあったわけです。
天正二年(1574)家康は姉川合戦(浅井方では野村合戦と呼びます)で抜群の働きをした高天神衆率いる小笠原長忠が武田勝頼の兵糧攻めと懐柔策により期待を裏切って高天神城を開城してしまいました。
その時、大澤寺の前身本楽寺は混乱する徳川軍の敗走に伴い焼失していますが、私は小笠原長忠に肩を持ちます。
「城を枕に討死」の戦法もありましたが2万ともいえる武田軍に包囲され兵糧も尽き、再三依頼した後詰も無し。近江まで遠征に付き合い、大いに活躍し信長に感状までもらった姉川戦だったにもかかわらず我が身の窮地に再三の後詰の依頼もなしのつぶてで応援の気配すらなし。
長忠が家康を信じられなくなるのももっともです。
勝頼も降伏して開城すれば「戦後は武田・徳川どっちについても自由」という大盤振舞の太っ腹。
むしろ高天神を見殺しにしたとも思える家康の戦後処理、後詰依頼の生き証人に腹を切らせるなど責任逃れともいえる不信。
大御所様も三方ケ原の敗戦以来の屈辱で取り乱したのかもしれません。
その悔しさの表れでしょうか城を取り囲む無数の砦群。
それら砦に囲まれた小笠川流域の田畑を焼き払い完全なる兵糧攻めで降伏開城をも拒絶しました。ちなみに家康は永禄十二年(1569)今川氏真が掛川城に逃げ込んだ時にも掛川城を取り囲む付城・砦群を同様に築いています。上記以外にも掛川城関連の砦が多数あります。
大御所の慎重さ(臆病さ) と執拗さが同居した場所です。
ブログ20120605→姉川 高天神衆