足助次郎重範
足助成瀬家の祖
1292年(正応5年)- 1332年(元弘2年・正慶元年)5月3日)足助氏七代当主 以下重範絶賛の尋常科用 小学國語讀本 巻十より
(昭和13年当時の教科書。幕府軍は「賊」になっています)
『元弘の昔、賊の大軍、笠置山の行在(あんざい)所をおそい奉りし時 足助次郎重範は、一族を引き連れて一の木戸を守りいたり。
賊はその勢七万余、岩角を伝い、かずらに取り付き、未明に乗じて一の木戸にせまりくる。
時に重範、木戸の上なる櫓に上りて、名乗りけるは、
「三河国の住人足助次郎重範、かたじけなくも一天の君に命を捧げまいらせて此の木戸を固めたり。万乗の君のおわします城なれば大将軍の御出であらんと心得て、大和鍛冶の鍛えたる良き矢じりを少々用意致して候。
一筋受けてごらんじ候え。」と
三人張(三人がかりで弦を張るような強弓)の弓に十三束三伏(じゅうさんぞくみつぶせ-矢の長さ- 握り拳13分と指3本分の長さの意 普通は十二束)の矢をつがえ、満月の如く引きしぼりて、ひょうと放つ。
その矢、はるかなる谷をへだてて、ひかえたる荒尾九郎が甲を通して脇腹まで貫き抜ければ、荒尾は馬より真逆さまどうと落ちて、その場に死す。
弟、弥五郎、これを敵に見せじと矢面に立ちふさがり、進み出で「足助殿の御弓勢(ごゆんぜい)日頃承り候いし程にはなかりけり。ここを遊ばし候え。
御矢一筋受けて、甲の程をためし候わん。」
と、胸を叩いて声高らかにののしれば
「さらば、今一矢仕り候わん。受けてご覧じ候え。」
と、十三束三伏、前よりもなお引き絞りて、はたと射る。
狙い違わず、弥五郎が兜の真向くだきて、眉間の真中にぐさと射込みたりければ、物をも言わず兄弟同じ枕に倒れたり。
これを戦の初として、寄せ来る敵を射倒し射倒し、防戦に努めければ雲霞の如き賊兵も引退き、ただ城の四方を囲みて、遠攻めにするばかりなり。
其の後、関東の大軍至るに及び、城遂に陥り、重範惜しくも捕えられて六条河原に斬られる。
重範死してここに六百余年、忠義にかおる弓矢のほまれは、年と共にいよいよ高し。』