紀伊圀名所図会
織田信長による紀州征伐 「今井権七」記述箇所抜粋
『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』
こゝに法敵織田内府信長公には、偏に日蓮派の僧徒日乗等が偏執の誹謗を信じ、元亀元年九月十三日はじめて大坂石山に仇せしより、諸国の門徒こゝかしこに蜂起して、怨みいきどほらざるものもなく合戦さらに止むときなし。
あるとき信長公おもへらく、われ結髪より軍馬をこととし、むかふ所敵なく、浅井・佐々木・朝倉なんどの強敵すら、既にことごとく攻め亡し、たとひいかなる要害堅固の城たりとも、不日に落ちざるところもあらざるに、石山の御堂こそいぶかしけれ。
固といふは唯一重の塀のみにして、諸国烏合の門徒等、これを守り防ぐなるに、かく連年兵をとかずせむるといへども、今にこれを抜き得ざるは、全く門徒等が信心無二の鉾撓まざるがゆゑなり。
就中(なかんづく)南紀雑賀の門徒等、よく鳥銃に調練し、わが軍をくるしむること数なれば、所詮雑賀を征伐し、其根を断ち枯らさんに、かさねて石山にみかたするものあるべからずとて、竟に天正五年正月十四日みづから上洛し、明覚寺に宿し、雑賀征伐のことを議しけるに、此とき雑賀の三成、および根来の杉坊等二心して、信長が方にまゐるべきよし諜じあはせしかば、信長公おほきによろこび、すなわち謀を決し、同二月五日、みづから河州若江に出張し、大将には秋田城之助信忠・北畠中将信雄・織田上総助神戸三七等、すべて十五箇国の精兵を引率してはせむかはしむ。
かゝりし程に雑賀方には、はやく此ことを聞きつけ是ぞ世運の盡くるときなればと、各心を一致になし苟しくも活きんとだにおもへるものは更になく和歌弥勒寺山を要害と定め、小雑賀の上下・名草濱・玉津島の辺の河中に、桶壷の類をいくらとなく埋めて、人馬の足をなやまさん備をなし、今や至ると待ちかけしに、先鋒に進みし佐久間右衛門尉信盛・羽柴筑前守秀吉・荒木摂津守・別所小三郎・同孫右衛門尉堀久太郎なんど、一騎當千の勇将等、三成及杉の坊を案内として、同三月三日押寄せ来るを、雑賀方には、待ちまうけたる折なれば、弥勒寺山を元として、北は吹上の峰にとりでをかまへ松田源三太夫・島本右衛門太夫・宮本平太夫・藤井太郎右衛門、其勢五百人、雑賀川へは紀の川の水をせきいれ、棚逆茂木きびしく構へ、かのうづみ設けし桶壷に、馬の足をなやまさんとす。中の手には、原見坂より宇須山東禅寺山の砦には、鈴木孫市をはじめとし、乾源内太夫、其外那賀・海士・名草三郡の勇名の郷士、そなへをなしてこれを守る。
和歌甲崎の砦には、関掃部太夫・同四郎八郎・今井権七・渡辺藤左衛門、山の尾崎に大筒を立てならべ、其勢五百人、中手の味方にちからを合せ、南は玉津島・名ぐさの濱今布曳村の辺をいふに至って、上口刑部・穂手五郎左衛門・和歌玄意・三井遊松軒、その手勢與力のともがら八百人、弥勒寺山の本陣には、的場源四郎是をまもり、南北よりあめのふるごとく、弓・鳥銃をつるべかけて放つおとに、真先に立つたる堀久太郎、一支もなく敗走し、すでに馬を渡さんとするに、當日や年毎の大退潮なるに、いかなる事にや、汐湛へて引かざるうへ、河中にまうけし穽に陥つて、わたることかなはねば、こは常事にあらずとて猶預ふところを、間絶もなくさしつめ引きつめ、さんざんに射立つる程に、たちまち手の下に、百四五十騎同じまくらに討倒され、のこる兵卒射すくみとなつて、右往左往にくづれかゝれば、雑賀方には得たりやかしこしと、勝凱どっとつくって、各得物を追取りつゝ、こゝを専途と追ひ討ちしかば、さしもさばかりの大軍といへども大潰し、四道路になつて引退く。
斯て織田方には終に敗北せしが、雑賀方には、此役こそわが一郷の断滅なれば、かねて期したることなるに、左右なく一戦に勝利を得、ふたゝび世運をひらきしこと、偏に神仏の擁護疑なしとて、大によろこび、あたかも物ぐるひのくるへるごとく、刀・脇差を簓とし弓・鳥銃をうちふって、指物をさしかざし、関戸村なる矢宮の広前に、をどりつれて喜びしは、理せめて勇しく、さればかゝる吉例なればとて、此時の踊拍子を後に伝へて、雑賀踊と名け、毎年四月十七日、東照神君の御祭礼に供奉し奉ることゝはなりし
『鷺森趁跛跳由来之事 』
さても織田内府信長公、元亀元年の合戦より、遂に本山との矛盾止む時なく、されば大坂にかゝる強敵をさし置きて、遠く西国を征伐せんこと思ひもよらず、かくてはいつしか天下平均のときあるべからず、さあらば和睦に如くはなしと、即ちそのむね天聴に達し、御扱いを申下しけるに、叡慮いともうるはしく、時の伝奏庭田大納言重道卿・勧修寺中納言晴豊卿、および近衛関白前久公には、本山において御由縁もふかければとて、これを勅使と定めたまひ、やがておのおの下向ましまし、勅命をもつて御扱におよびたまふに、兎角宗門相続のためなれば、これまで粉骨なせる門徒のともがらにも申しきけ、其上勅答申上ぐべしとのことなれば、勅使もせんすべなくて、其儘帰洛なしたまへり。
此とき本山には、新御門主教如上人をはじめ、下魔安察使法橋頼龍・同刑部法眼頼廉・常楽寺證賢・顯證寺證淳・教行寺證誓・慈敬寺證智、就中門徒の内にも、雑賀の宿老等打寄りて、評議まちまちなりけり。
本此石山の御堂は、要害他にこえたれば、今は信長せめあぐみ、一旦和睦をもって退去せしめ、不意に討取るべき結構なれば、臍をかむの悔あるべしとて、敢て勅命にしたがはんといふものもあらざれば、御門主には深くも案じ煩はせたまひける。然るに下間少進法橋仲之、前より衆評をまちて、己が異見をもあかさざりしが、こゝにおいて衆に対していふよう、當山織田家と数度の合戦、すべて彼方より攻め来るを、宗門破滅のことを恐れ、各粉骨に盡してこれを支へ防ぐのみにして、一度も當山より仕掛けたる軍とてはあらざれども、今既に萬乗の至尊勅命あって、和議を取結びたまふなれば、これにしたがふの外あらず、既に蓮上人の御遺教にも、むつかしき題目なんども出来たることあらんときは、速に執心のこゝろをやめて退去すべしとはのたまへり、是すなはち権者の未来記にして、今此時にあたりたり、其うへ思うに、枯れは分取功名にしたがって、これをすゝむるに采地俸禄をもってすれば、たとひ父をうたれ子を失ふといへどもつゝく勢はいくらもあるべし、御味方にたのむところのものとては、諸国の門徒にして、もとより軍馬にならはざる優婆夷・優婆塞の、他力の本願にうち任せたる信心よりなすところといへども、日々に其勢の減ずることあるのみにして、更に増しつぐものなければ、竟には自滅のときいたるべし、さあらば此御堂はいふもさらなり、所々の砦をも引きはらひ、織田方に御わたし有って、和美をとゝのへたまふべきよしの誓紙を以て、勅答なしたまはゝ、宗門永久繁昌の基なるべしと、憚る所もなくのべしかば、御門主を始めたてまつり、満座の人々其理に服しつゝ、既に其儀に一決し、やがて其旨御坊へ勅答あって、竟に天正八年七月、御門主には石山の御堂を御退去あらせたまひ、この鷺森の御坊へ御移住ならせ給ふ。
しかるにそののち、新御門主紀の路にしのばせたまふよし聞きおよびしかば、信長公大に激怒し、安土のしろにおいて、三男神戸三七信孝に命じけるやう、本願寺の門主父子の間おのおの別のよし、既に朝廷へ奏し、我方へも達しながら、今以て合体なすよし、最奇怪至なり、汝いそぎ馳せ向うて、雑賀の御堂にせめいり、門主父子を討ち取り、根を絶って葉を枯すべし、さもあれ門徒の者共與力して、一揆を起さんこと必定なれば、陽にし難し、四国に所領をあてられ、入部する真似して不意にこれを襲ひ、門徒をして勢を張らしむること勿れとありしかば、信孝これを領し、すなはち父子ともに上洛あって、其そなへ専なり。
いで其ころは天正十年五月十一日、三七信孝には、都合五千餘騎を引率して、泉州堺浦に下着有る。かゝりける程に、雑賀のものどもあわてふためき、こは訝しきありさまかな、西国渡海あるならば、濱の手のみに陣どりすべきに、雄の山ふもと山口の方に向うたるぞ、まさしく此御堂を覘ふなるべしとて、追々に注進なすほどに、寺中大に騒ぎ立ち、即時に遠近の門徒に触廻し、加勢を催すほどに、我も我もと馳集り、雄の山の嶺に、屈強の剛兵をすぐつてこれを守らしめ、敵の到るを待ちかけしが、されども俄のことなれば、寺中に集る人とても、やうやく近郷の僧侶のみなれば、頼すくなくぞみえにける。同六月二日の暁天に、先鋒の大将丹波五郎右衛門長秀、三十餘騎を二手に分ち、濱の手および山中越にそなへをなし、二隊の軍卒、潮のわくがごとく押来り、御堂の遠近十重二十重にとり巻きて、鯨波をつくりし其ありさま、天地もくづるゝごとくなれば、寺中のものども消魂かへりて、恐れ怖くばかりなり。下間頼廉是を勵し、比興なりかたがた、兼ての安心は此ときならずや、祖師への報謝はわすれしかと聲をあげて下知するに、雑賀の門徒に鈴木孫市・同孫六・島本右衛門太夫・宮本平太夫・乾源内太夫・関掃部太夫・今井権七・穂手五郎左衛門・松田源三太夫・藤井太郎右衛門・渡辺藤左衛門・上口刑部・三井遊松軒・和歌玄意・島與四郎・的場源四郎、其外岡崎なんどの門徒、おのおの手勢引具して、仰にやおよぶべき、我々浄土の先がけいたすべしと、大門さつと押しひらかせ、稻麻竹葦に圍みたる、大軍の中にわつて入り、無二無三にかけ立てゝ、右に當り左に支へ、今を限りのいのちぞと、大童になつてたゝかふほどに、要害もなき平地の御堂、唯一揉に攻め落とさんと思の外、鈴木党の死力を勵す鉾先に、左右なう進みもやらず。此時下間頼龍鐘楼に登りて、鐘鎤々とつき鳴せば、これを相図に末寺々々より、おのおの早鐘つき立てて、国中の門徒等或は三十人又は五十人、追々にかけ来り、丹波がそなへの後をとりまき、礫をうちかけ、竹槍・鋤・鍬・鎌のたぐひ、おのおの得ものを打振つて、喚叫んで防ぎしかば、丹波がそなへはうらくずれして色めくを、得たりや應と鈴木孫六、憤勇をふるうて四面に蹴たて、勝ちに乗して付入りしが、流玉の為に足を打貫かれ、尻居に撞と倒るれば、我討ちとらんと四方より、敵兵落ち重なりけるを、孫六片足にすつくと立ち、防ぎ戦ふといへども、多勢にとりこめられしかば、既に危くみえたるところに、鈴木孫市かくと見るより馳せきたり、むらがる敵を八方に切り靡け、竟に孫六を救ひ出し、肩にうけて引退く。敵兵透さず追来るといへども、折節天色暮れければ、長秀軍を引上ぐるに会して、鈴木は難なく逃げのびけり。されば御堂には、今日ぞ宗門の滅亡、御門主の御最期と定めたるに、案の外に勝利を得て、しばらく安堵のおもひはなすといへども、もとより糧さへ蓄へざるとなれば、明日なん必定西方の首途なれば、今宵こそ生死のさかひなれ、娑婆の名残も今しばしぞと、おのおの異口同音に称名してありけるが、既にその夜も三更のころなるに、寄手の陣をうかゝえば、泉州にひかへたる信孝が大軍、後詰として馳せ はゝり、二萬に近き軍卒の、野にも山にも布き満ちて、篝のかげは天を焼すがごとく、乱調の金鼓耳をつらぬき、槍刃露にみがきて、殺気凛々たり。かくてはたとへ鐡門石郭に籠るとも、いかでか保ち得べけんや。
此うへはかならずしも防ぎ戦ふことなかれ、さあらば、おのおの最期の用意いそぐべしと、御門主にもかくと報ずれば、御一門をはじめ、家老已下、すべて御堂にありあふ門徒の面面をめし集められ、高祖の御真影に向はせ給ひ、両眼に御涙をうかべさせ給ひてのたまひけるやう、末世濁乱とはいひながら、魔軍蜂起して、修羅の巷に沈淪すること、嘆きてもなほあまりあり、適高祖我法門を弘通なしたまひしより、既に三百餘歳を経て、宗風四海に充満し、化他の功徳広大なりとも、今たちまちに断滅せんこと、皆これ我不徳のなす所なりといへども、将に天運をいかにせん、さもあれこのうへは、敵に向ふ事なく、唯称名をよろこぶべし、いざもろともに暇の盃くみかはさんと、土器をもて賜りしかば、皆々これを頂戴し、浄土の見参待ちたてまつると、ともに涙にくれにける。かくて其夜も更け過ぎて、明くれば水無月三日の暁天に、須弥も崩るゝ鯨波のこゑ、御堂の四面をとり囲み、水ももらさず押来れば、寺中には、今ぞ最期の時いたれりと、真影にむかひ称名なすもあり、または勇気のはやり雄には、此儘死せんいはれなし、いで我往生の土産に、法敵のくび携へんと、短兵を接して進むもありしが、此折から御門主の北の方は、細川晴元の御息女にて、もとより心猛々しく坐しませば、長刀かい込み、おもて間ぢかく立出でたまひ、軍のやうす見給へるに、敵味方のわかちはしらざれども、屈強の武者唯一騎、さしも雲霞のごとき猛勢が中を突入れはねかけ、韋駄天のごとくはせ来り、なんなく御堂の門外に馳着き、大音声に喚りける様は、法敵織田上総助平信長・嫡子城之助信忠もろともに、家臣明智光秀がために、昨二日京都本能寺の旅館に於て生害せり今は詮なきたゝかひなれば、此を注進まをさんために来りたり、かくいふ我は摂州玉川の合戦にて虜となりし、藤白の住亀井六郎なるが、彼騒動に禁獄を打破り、たゝ今かへり来りしなりと、天へも響けとのゝしるにぞ、御堂の僧侶これを聞くとひとしく、こは夢にはあらずやと勇み立ち、よろこびあへるぞことわりなり。織田方には、これぞ敵方の計略ならめと、しばし狐疑してありけるが、己が方にも早打の注進来りしかば、諸軍みなみな動転し、今までの気勢一どきにたゆみ、各京師のかたに心せかれ、後陣の引くをもまたずして、右往左往に崩れ立ち、我先々々と引きとりけるは、見ぐるしかりしことどもなり。されあば鬼神とも呼ばれし信長父子、一時に逆臣光秀のために生害せしこと、是ひとへに諸天の擁護なしたまへる高祖の宗門に、仇せる罪を罰し給へるところ厳然たり。さても御堂には、御門主を始め奉り、群居る門徒の
僧侶まで、死したる人のふたゝび蘇生したる心ちして、そぞろ涙せきあへず、かねて頼みまゐらせし本願の誓、まのあたりに利剣をもつて法敵を誅し給ひ、ながく御宗門の仇を亡したまへることのありがたやとて、声々に称名念仏して、よろこぶことかぎりなし。中にも鈴木孫六は、きのふのたゝかひに片足を鉄砲に打貫かれ、歩行も自由ならざるに、あまり嬉しさに、痛手もいとはず、かた足を引摺りながら、扇を上げてをどりいで、あら目出たやよろこばしや、法敵ほろびて宗門の末ひろがり、千秋楽とうたひかなでけるにぞ、満座の人々一同に、よいやよいやとをめきしは、いさましかりけるありさまなり。
されば斯る吉例なればとて、毎年四月六日の夜、大ならしとて此境内にて興じける。同じく十七日、東照神君の御祭礼に供奉しまつると、古老の言ひ伝へはべりき。
和歌の浦や行末契る友づるの霜のつばさに千代やかさねん
此御うたは、慶長十四年八月、准如上人和歌吹上御遊望の折から、詠じたまふところとかや。此上人前に御父顕如上人とともに、大坂より此鷺森の御坊にいらせ給ふ時は、まだ四歳にならせたまひ、阿茶丸君と申せしが、天正十一年、顕如上人泉州貝塚に御移住、同十三年摂の天満に御動座、同十九年太閤秀吉の招きに応じて、洛の六條にうつらせ給ひしが、終に元禄元年十一月二十四日、御歳五十歳にして御遷化あらせたまふ。されば御父にはわかれさせたまひ、兎角にむかしのしのばしくおぼしめしける程に、此御下向はありけるとなん。此とき城主浅野紀伊守、城中に請じまゐらせ、御饗応いとおごそかにして、ともに御ものがたりありけるとかや。抑當御堂は、蓮如上人文明八年に海士郡冷水浦に御草創以来、今に至るまで一度も回禄に罹らず、殊に顕如上人此地に於て、かくのごとく御運を開きたまへば、宗門長久の基にして、無双の御旧跡にて、真宗の南岳、関南第一の霊場とは、それ是をいふべきなりとぞ。