成瀬藤蔵正義と本多平八郎忠勝と岡崎本陣

相良大澤寺文書に見る「正義の妻 妙意」についての推論                                                                                                                         林信志

 

大澤寺文書

 

静岡県榛原郡相良町(現牧之原市)に浄土真宗寺院の釘浦山大澤寺がある。

この寺に伝えられた古文書「大澤寺由緒」「釋尼妙意記」「大澤寺過去帳」によると『徳川家康の家臣成瀬藤蔵正義が三方ヶ原の戦で討死した後 妻と遺児が相良へ来て大澤寺を継いだ』ということになっている。さらに『その妻(妙意)というのは、本多平八郎忠勝の従妹であり、岡崎本陣の娘だった』というような記事がある。

これら文書そのものの史料的価値の検討は別として、その記述には興味を魅かれるものがある。

また藤蔵正義の浜松時代の妻子については、江戸時代の古い資料が他には全く残されていないので、これを調査する意味は大きいと思われる。

もしこの記述が真実なら、大澤寺の文書の価値を高めることにもなる。

 

大澤寺文書による妙意像

 

文書の内容には時代の前後関係など疑問の点も多いが、妙意にかかわる部分を整理してみると次のようになる。

 

1 岡崎本陣の娘で本多平八郎忠勝の従妹。

2 生まれたのは弘治元年(1555) 。生まれた場所や名、親につい 

   ての記述はなし。

3 藤蔵正義に嫁したのは永禄十年(1567)以前。

   長男とされる子がこの年に生まれている。

4 子供は男子4人。

5 元亀三年(1572)三方ヶ原の戦により十八歳で未亡人。

6 夫の菩提を弔うため、出家して妙意に。

7 子供の一人を掛川藩本多能登守忠義の家臣片岡家へ養子に

8 浄土真宗の熱心な信者で末子を大澤寺の養子にし自身も寺に

     入った。

9 夫の戦功により徳川家康から土地や阿弥陀如来像の寄進を受

     けた。

10  万治三年(1660)死去、百六歳。

 

本多平八郎忠勝の従妹

 

「寛政重修諸家譜巻六百八十一」(→寛政譜 →681)

                 本多平八郎忠勝家系

 

 

1   父方の従妹

   忠勝の父、忠高の兄弟姉妹としては弟、忠真しかいない。

   忠真には女子が一人いるが家臣の阿佐美金七郎某の妻に。

2   母方の従妹

     忠勝の実母は某氏 不詳。

3   母方の従妹

     忠勝の継母は某氏 不詳。

4   大澤寺文書の「従妹」表現が広義でたとえば「縁戚の女子」

     程度の感覚の可能性。

5   いずれにせよ武家系図では女子記載の重要性がないため親類

     縁者を系図で辿っても「従妹」特定は難しい。 

      

 

平八郎忠勝と岡崎本陣

 

徳川家康の直臣藤蔵正義の妻として格式の高い本陣とはいえ町人の娘を迎えることは考えにくいところである。

よって本陣の娘である前に平八郎忠勝の従妹としての女子を娶ったのではないか。

当然武士の娘としてである。

そうだとすればその後、親なり実家の家系が武士をやめて本陣になり、結果的に「本陣の娘」になったとも解釈できる。

「寛政譜」に平八郎忠勝の親戚は多く出ているが、武士をやめて本陣になったという記述はない。しかし別の史料とつき合わせると本多家と本陣との関係が浮かび上がる。

キーワードは「中根」である。

「新編 岡崎市史 中世2」の「第3章戦国動乱期の岡崎」の一項目「箱柳の中根氏」を引用すると

 

 近世の岡崎城主忠勝系本多氏の老臣の一人であった中根家も

 山中譜代=旧岡崎家被官とみられる。

 宮崎市中根正敏氏所蔵の「中根家譜」によれば中根氏は平忠 

 正(清盛の叔父)の末裔で、平治の乱後、子正持は尾張国中根郷 

 に遁れ、のち三河に移住して箱柳に住して近辺を領したとい

 う。これを傍証する史料は発見できないが、中根氏は清康に服  

 従した際にその領地の一部を削減されたという伝えはほぼ信

 用できる。

 それは忠正より十数代後の忠良の代で、それまで友好関係にあ

 った今川氏に攻撃される一方、清康からも攻められて・・中略

 

   もっとも旧岡崎宿本陣中根甚太郎家の家譜「中根氏譜牒」で 

 は若干内容がことなる。

 所領を減じたのは忠良の父正俊の兄正頼で、清康が小身のため

 十三か村のうち十村を献上して、箱柳・小呂・田口の三か村を残

 したとある。

 これによれば忠勝系本多家の家臣の中根家と岡崎本陣の中根

 家とは同祖であり、本陣中根家は元は武家であったことにな 

 る。本多忠勝と中根家の深い関係は「寛政譜六百八十一」(上

 記)からも知ることができる。

 

 

   ・永禄九年騎馬の士五十餘人を附属せらる

              中根五助重定・・・等なり

 ・天正十八年・・・上総国のうちにおいて十万石の地を賜り・・・

             中根平右衛門忠元を附属せらる 

 ・女子(忠勝妹)・・・母は忠勝に同じ。はじめ小野某が妻となり

           のち家臣中根平右衛門忠実に嫁す

 

 

 

寛政重修諸家譜巻五百五十二()には平忠正を祖とする中根の系譜がいくつか出ている。

忠勝に附属した中根平右衛門忠元の名もあって忠勝の家臣となった家系はわかるが、陪臣後の系譜は記載されないので、どのあたりで本陣になったのかは知ることができない。

ただ岡崎本陣となった後の中根家については「新編 岡崎史 近世3」の第二章、第五章に出ている。

 

 ・問屋は・・・寛永に入って四郎左衛門、同年末から正保にかけ 

  ては浜嶋四郎左衛門・中根甚左衛門・・・同三年も同じく四人

  の名がみえるが、ただ、中根甚左衛門が中根八郎左衛門にな

  っている。

 ・正徳三年(1713)ごろには中根甚太郎と浜嶋久右衛門の二人

  が本陣をつとめ・・・

 ・寛政、享和の時期は中根甚太郎・服部専左衛門の二軒・・・

 ・文政九年(1826)には本陣は中根甚太郎・服部伝左衛門・大津

  屋勘助の三軒・・・

 ・天保十四年(1843)にも本陣脇本陣各三軒、本陣大津屋と中

  根家は上之切で向かい合い・・・

 ・文久元年(1861)には本陣中根甚太郎・服部小八郎・大津屋勘

  助の三軒・・・

 ・文久元年九月・・・この時期にはかつての中根甚太郎は本陣を

  やめて一人宿として記載されている。

 

このほか本陣中根家は苗字帯刀を許され、庄屋・問屋を兼ねた記述もある。

このように江戸の初期から幕末まで格式の高い家柄が続いたのは、その出自が徳川家・本多家と関係のある武家であったからであろう。

 

 

 

藤蔵正義と平八郎

 

天文四年(1535)生まれの正義は同十七年(1548)の忠勝より十三歳の年長だが家康の家臣としての地位は忠勝の方が上だった。

永禄十二年に軍列が定められたとき、忠勝は旗本一手の将になったが、正義は御使番兼御旗奉行として家康に近侍していた。

しかし、共に武勇の士をもって任じていたので、互いに認めあっていたのではないだろうか。

「三河後風土記正説大全」に、元亀三年の三方原の戦、朝のできごとが載っている。

 

 『爰に鳥居四郎左衛門忠広は今朝成瀬藤蔵正義と口論し既に 

 打はたすべきを本多忠勝さとしけるゆえ一命をたもちけるが、

 今此せつ鳥居は成瀬に向て「今朝死すべき貴殿と我らが命な

 れども忠勝いさむるによって今まで死をのばしたり、然るに今

 ははや死すべき時節なれば今朝の一言無下にすまじ」とこと 

 はりければ成瀬聞て『尤』と同意しければ両人

 ひとしくむらがる敵中へかけ入りたり。・・・』

 

こうして両人とも武田軍と華々しく戦って討死するわけであるが、忠勝が仲裁に入ったのは、正義が自分の従妹の亭主だったためと、武勇の士を無駄死にさせたくないとの思いかあったのではないか。

殊に正義には永禄五年、同僚と争論しこれを討って遠州へ走った前科があったのを、心配してのことではなかったか。

 

正義と忠勝と中根と本陣

 

以上のことをふまえて、一つの可能性として次のように推論してみた。

 

 ・正義と忠勝は仲が良かった。

 ・忠勝と家臣の中根家は姻戚関係にあり、その中根家には忠勝 

  の従妹にあたる年頃の女子がいた。

 ・永禄十年頃、三十二歳ぐらいの正義は忠勝の斡旋で中根家の 

  その女子を娶った。

 ・四人の子供ができた後、正義は討死、妻は未亡人となった。

 

 ・夫の菩提を弔うため出家して「妙意」となり、遠州相良の大

  澤寺に入った。

 ・寛永十六年、忠勝の甥能登守忠義が遠州掛川藩主となった時

  親戚だった妙意は忠義に頼み込んで、家臣片岡家の養子にす

  ることができた。

 ・その後、実家の中根家は武家をやめ岡崎の本陣となった。

 ・妙意は実家の事を「岡崎本陣」と言うようになった。

 ・相良が掛川藩の領地になり、妙意と藩主の関係、さらには忠 

  勝との従妹関係が広く知られるようになった。

 ・万治三年、妙意が亡くなったとき、寺の過去帳に「本多平

  八郎忠勝の従妹 岡崎本陣の娘」と記された。

 

大胆すぎる推論だとも思うが、全く間違いであるという反証もいまのところ出ていない。

さらに調査を進めたい。

 

この小論をまとめるにあたって、岡崎市上六名の成瀬守重氏と岡崎市教育委員会の内藤高玲氏の御援助をいただいた。

感謝の意を表する次第である。

 

        平成十四年(2002)三月     林 信志