成瀬暁心翁之碑~日坂法讃寺
20130316 ブログより
正四位勲四等子爵成瀬正肥篆額
成瀬氏之先出自尾張国犬山人藤蔵正義君君事東照公三方原之役我軍大敗績君感激奮戦敵莫不被靡君知君之遠去謂衆曰今日我事終衝圍而戦歿君配某剃髪改名妙意有孤兩男相携ト居於遠江国城東群西方邨稱下澤田而奠柩且決意創立平尾邨西林寺隠遯於此祈君冥福天正年間罹兵燹因移相良近郊須須木邨稱大澤之小庵而後又建立一宇於榛原郡相良新街又移居焉即今之大澤寺也萬治三年正月廿九日享年百六歳病逝矣先是東照公召其長子以為嗣是謂犬山家之祖成瀬隼人正正成君次子藤蔵正義君辭召農耕自給即為西方邨成瀬家祖為人至孝紹母志信佛尤深逢人語考妣遺事潜然久之云延寶元年七月廿五日病逝諡曰昌巌道玖居士長子宮内衛門君有故分家産別宅於日阪古宮町後六代而至先孝半五郎孝甞謂祖先塋舊在同邨田間中建築之小宮納祀其位牌與系譜故安永年間前代某出弔犬山家墳塋時携系譜供之城主一覧以其統判然拝領大小刀槍上下服等而帰焉斯以後間有城主参勤於江都乃途送迎于大井川贈於菊川鍛冶之矢鏃之事而孝之父忠兵衛深信佛突然出家巡拝高祖親鸞上人舊跡遂不帰母亦去徃御前崎郷里轉而歿東京云盛衰如夢是以先業邨衰家殆中絶祖傳什物皆散佚唯遺係備前長舩清光作大小一對而巳大有故譲本町別家失諸火災小則孝所所蔵今實在温手孝幼而孤故寄姻威金谷黒田氏又為川崎笠原氏所養難耐去終勤仕掛川祖父江氏艱苦具嘗温憶此今猶涙難禁焉及長一日慨然大息曰時窮親戚亦疎待我家門閥之後雖零落以至今猶不可再興乎此年廿四五奮然辭祖父江氏独立創薬業巳得娶本町久兵衛君長女千代子協力勤勞終回復先業實可謂吾中興之祖雖然繼絶之業亦同戦後之経営不容易晩漸得安焉明治十三年夏五月佐夜中山開新道静岡県令大迫君將選県下雙壽以使為先導時考年八十一妣七十五當其選得並車先導之光栄考恒信佛傍楽俳句號暁心時有句曰 餅滿吉也登喜茂和歌葉迺美地比良幾 呈大迫君君返歌曰 毛呂登茂仁八十歳古江亭高砂乃松登東茂尓母千代遠遍努辨之 明治十六年十二月十八日午前三時老病如眠稱名之
聲微而逝享年八十四妣先逝同七十八有三男長温嗣家次善十郎出嗣金谷松浦氏季辰平有故替為嗣温出嗣本町正右衛門之後此家歴代以善書稱於郷黨温繼其箕裘固非偶然也温既使長男宗兵嗣遊東京扣諸名家門終遊安井息軒翁門而下帷根岸邨以書法教子弟曽拝職宮内省御用掛奉
勅臨義之聖教序上之稱旨賜古硯係於楠中將手澤者實吾家萬代之宝也余毎感此幸榮無不懐起祖先餘光與考之恩恵茲議善十郎辰平兩弟序祖先之系譜與考之勤功以勒之貞珉表三悟山先塋之側云
明治三十年歳次丁酉冬十二月
賜硯堂成瀬温雪涙誌并書
松浦善十郎
成瀬辰平 建 之
井龜泉 鐫
成瀬暁心翁之碑 日坂法讃寺 口語訳
第九代犬山城主篆書の表題
成瀬家の先祖は尾張国犬山(※正しくは三州足助)の成瀬藤蔵正義という方で東照公に仕えていました。
三方原の戦いでは我が徳川軍は大敗しましたが、正義はここぞとばかりに奮戦したので、まわりの敵は恐れをなして道を開きました。
家康公が敵から遠く離れ去って行くことができたのを認めてから正義は近くの味方に「自分の勤めは今日で終わった。後を頼む」と言って敵の囲みの中に突撃して行き討死しました。
正義が亡くなったので、その妻は髪を剃り落とし、名も妙意と改めて二人の息子を連れて、遠江国城東郡西方村の下沢田に住むことになりました。
夫正義を弔うため平尾村(菊川市)に西林寺を建てひっそりと暮らしました(西林寺は本楽寺の誤り)。
三方原の戦いのすぐ後の天正の時代に、再び徳川と武田の戦いがありお寺(本楽寺)が焼かれてしまったので、相良の近くの須々木村に移り大沢の小庵という小さな家に住みました。
その後、相良に新しくできた街(相良新町)に御堂を建てて移りました。それが今の大澤寺です。
萬治三年(1660)一月二十九日、百六歳で妙意は亡くなりました。
これより先に、家康公は妙意の長男を呼び出して父正義の跡目を継がせました。
これが後に犬山城主となる成瀬隼人正正成という方で、犬山成瀬家の先祖です。
次男の藤蔵正義(父と同名)は家康公のお召を断って農業で生活するようになりました。そして菊川町西方の成瀬家の祖先となります。
幼い頃よりとても孝行で、母の教えを受け継いで熱心に佛を信じました。亡き父母のことをよく人に話しては静かに暮らしたということです。
延宝元年(1673)七月二十五日に亡くなりました。戒名は昌厳道玖居士といいます。 正義(次男)の長男の宮内衛門という人は訳あって日坂の古宮町に分家し、六代目が私の亡き父、半五郎になります。
父は以前「祖先のお墓が日坂村の田んぼの中にあったのでそこに小さなお宮を建て、位牌と家の系図などを納めた」と言っていました。
昔、安永年間(1772~1781)に、先祖の誰かが、犬山城主成瀬家のお墓参りに行ったことがあります。
その時持参した家系図を城主にお見せしたところ、その家系は確かなものであるということで、大刀・小刀・槍・裃などを頂いて帰ってきました。
それからは城主が参勤交代で江戸への行き帰りの度ごとに大井川までの出迎えと見送りをしてきました。菊川で特別に作った鏃を贈ったことなどもありました。
半五郎の父の忠兵衛はとても深く佛を信じ、ある時突然家を出て出家し親鸞聖人の由緒史跡をお参りして回り、とうとう家に帰ってきませんでした。
母もまた家を出て、郷里の御前崎へ行ってしまいました。その後、東京へ出て亡くなったということです。
栄えていたものも、あっという間に衰えてしまうのは、本当に夢のようです。
このようにして、家業が次第に衰えていき、殆ど破産のような状態になってしまいました。
先祖から伝わった立派な品々も処分されて無くなってしまい、ただ残ったのは備前長船清光という名工の作った大小の一対だけでした。
大刀は訳あって本町の分家へ譲ったのですが、その後の火災で焼失したとのことです。小刀の方はずっと父が持っていて、今は温(ゆたか)の手元にあります。
父の半五郎は、幼い時に両親とも居なくなってしまったので、親戚の金谷の黒田家に預けられたり、川崎(旧榛原)の笠原家で育てられました。
親戚をたらい回しにされ耐えられないほどの苦労が続きました。その後、掛川の祖父江さんのところに勤めるようになりましたが苦労は尽きません。父の幼い時からの苦難を想うと気の毒で涙が止まりません。
成長した父はある時、大きなため息をついてしみじみと語ったそうです。
「貧乏すると親戚付き合いもまた冷たくなる。我家は徐々に落ちぶれて、今はこの様になってしまったが 今からでも遅くは無い。元の様な立派な家に建て直さなければならないのだ」と。
この時の年齢は二十四、五歳です。きっぱりと決意して、祖父江さんの所を退し、独立し薬屋を始めました。
仕事が安定してきたところで、本町の久兵衛さんの長女の千代子を嫁にもらい、二人で協力して働き、先祖に恥じない立派な家業にまでにしました。
まさに成瀬家の中興の祖と言わなければなりません。
しかしそのような勢いを永く続けるということは難しいことでもあります。
特に幕末戊辰戦争後の混乱で経営状態が悪くなり、その後安心して暮らせるようになったのは晩年になってからでした。
明治十三年(1880)五月、小夜の中山に新しい道の開通式の行列がありました。
その時父は八十一歳、母は七十五歳でした。静岡県令の大迫さんより、県内の長命の夫婦ということで選ばれて並んだ車の先頭に立つという名誉を受けました。
父はいつも佛心厚い人でしたが、その傍ら俳句を楽しみ「暁心」と号していました。新しい道の開通式の時、次の句を記しました。 「餅まきや時も若葉の道開き」 大迫さんにお見せすると返歌がありました。
「もろともに八十歳超えて高砂の 松と共にも千代を経ぬべし」
明治十六年(1883)十二月十八日、午前三時年老いて病の父に最期の時がきました。
念仏を唱える声も次第に細くなっていき、眠るように息をひきとりました。八十四歳でした。
母は父より先に、七十八で亡くなりました。
父母には三人の息子がいて、長男の温が家を継ぎ、次男の善十郎は金谷の松浦家の養子となりました。
末子の辰平は訳あって温に替って家を継ぐことになり温は家を出て本町の正右衛門さんの家を継ぐことになりました。
この正右衛門さんの家は代々、書道の上手なことでこの土地では知られていましたが、温がその家を継いだのは偶然ではありません(その志がありました)。
やがて温は長男の宗平に家をまかせると、東京に出て優れた先生方に教えを乞い、安井息軒先生に就いて励みました。その後、根岸村(台東区)に住んで弟子たちをとって書道を教えました。
また宮内省御用掛を勤めさせていただいた時、明治天皇の御命令によって「王羲之の聖教序」という古典を臨書してご覧に入れたところ、大変褒められ硯を賜りました。
この硯は、武人であり能筆家として知られる楠中将正成の使用されたもので、私の家にとっては万代の宝であります。
これは大層光栄な事でこれも祖先のおかげと思い御恩を有り難く感じています。
ここに善十郎、辰平の二人の弟と共に良く話しあって祖先から伝えられた色々な手柄や栄誉を美しく固い石に刻み三悟山法讃寺の表の先祖のお墓の側に建てておきます。
以上 日坂法讃寺 資料より
ブログ20130316