太子山 武作寺 広済寺
武佐寺略記
当寺は所謂、武佐寺の一部にして推古二年甲寅二月聖徳太子、武阿綱に命じて伽藍を此の地に建立し賜ひ、之を武作寺と称す。
村名、武佐の由りて来る所、蓋し此れによるか。由りて自ら彌陀の像を作り其の一堂に安置し名付けて東金堂と云う。即ち当寺是れなり。
また別に観音の像を作りて別堂に安置し名付けて西金堂という。
今の長光寺是れなり。
当寺爾来天台宗に属せしが嘉禎元年(1235)四月見真大師
(親鸞聖人1876年追贈)関東より帰路の途次寄錫あり。
寺主大師に謁して聞法随喜し直ちに師弟の契りを結びて其時より
真宗に帰す。大師のちの名を大同房了仙と賜い六字尊号に所持の
念珠と和歌
○南無阿弥陀仏をたのむ人なればなればみなたすくべき近いなり
○百八の心なからに称ふれば 南無阿弥陀仏にめぐりあふなり
○くりかえしくりかえしても尊きは南無阿弥陀仏の御名にぞありけ
る
と三首を添えて、汝我を見んと思はば此の記念を見るべし と。
是等の品今なお当寺に宝蔵す。
元暦元年(1184)四月左近衛中将平重衡朝臣、鎌倉へ護送せらる時、当寺に詣で本堂の柱に
○世のうきめみつつ近江の武佐寺や広く済はん法ぞうれしき
と題して去れり。惜哉、其後兵火のために其堂焼失せり。
文和四年(1355)正月中旬後光厳天皇、乱を避けて当寺に駕籠を
駐め賜ふ。
康安元年(1361)十二月再び臨幸ましまし、六十日間御駐輦(ちゅうれん)あらせられたり。後、貞治元年(1362)当寺住持還栄を法眼僧都に
叙し、彌陀の古像一軀(安阿彌の作と云ふを賜ふ) 即ち今の本堂
御本尊これなり。此時より太子御自作の阿弥陀如来は之を内道場に
安置することとなれり。
永正より天正に至る年間に加賀国本願寺の所領となれりし時、当寺の
住持祐乗、實如上人の命を受けて加賀国を治む。
由りて金沢に一寺を建立して広済寺と称す。
天正十五年(1587)当寺主、嗣子なきを以て之を本願寺に求む。
顕如上人のち安休房西周に命じてその嗣となす。
安休は浅井久政の子にして徳川家の姻戚たり。是を以て家康、秀忠
二公の寵遇を受け、廔々幕府に召され拝受せし数二、三に止まらず
是等の品今猶当寺に宝蔵す。
明治十一年十月明治天皇北陸御巡幸、御還幸の際、当寺を以て
行在所となし賜ふ。
また昭和三十二年十月、西本願寺門主御巡教の節、御寄錫あり。