専念寺由緒書より 現代文訳
駿州江尻宿在の清水港にある専念寺は、その昔、真言宗で摂州(摂津-大坂)東成郡堀江に所在しましたが真證院様(蓮如上人)が石山御堂(石山本願寺の前身)をお建てになる時、時の住職祐實が上人に深く帰依されることとなり、そのお弟子になって改宗いたしました。
祐實の子祐行および三代目の祐信の代も忠節を重ね、信浄院様(教如上人)に常随してお給仕いたしましていたところ、元亀天正の頃(1570~1580)織田信長との戦乱に際して石山御堂に籠城し、身命を投げうってお味方いたしました。その時、専念寺の堂宇も残らず兵火にかかり焼失いたしました。
その後、慶長五年(1600)、教如上人がひそかに関東へご下向になる時、途中で石田三成の討手による御危難のおそれがあり、お供いたして祐信が身内の者に通報したところ、早速御加護におよんで難に遭うこと無くご通行になりました。
その次第は、播磨屋作右衛門と津之国屋甚右衛門の両人が駿州袖師ケ浦に居住していましたところ、御危難のおそれを聞きおよんで驚いて駆けつけ、お出迎え申し上げ、難を避けてお供いたし、袖師ケ浦にもお立寄りいただいたとのことです。
作右衛門、甚右衛門は石山本願寺籠城の残党です。
その名は山本河内守および田中唯介にほかなりませんが、その後浪人して袖師ケ浦に居住しておりました。
二人は久しぶりに教如上人に拝顔できたことことが実にありがたいことと涙を流し、上人もまた先年来の御苦労のほどを縷々お話になり、とめどなく御落涙になられました。
またこの地で再会できたことが不思議なこととと言われてご満足あそばされましたが、御教化のお話もありましたので、作右衛門と甚右衛門は、この清水港において一箇寺を建立したい旨を、身内の祐信を通じてお願申し上げましたところ、奇特のことと思し召し、祐信にその旨を下知なされました。
石山合戦終結後、大坂堀江の地を退転した専念寺を再興したいとの趣旨を、教如上人はお許しになったのです。
上人は京都にお帰りになった後、お供の祐信に、お暇を賜った節、「蓮如上人お取立ての一寺として再興せよ」との厳命を下されまして、蓮如上人の御真筆と御影像を下賜なさいました。今日までそれは大切に御安置されております。
東泰院様(宣如上人)の代には、度々関東へ御下向がありましたが、その都度、江尻宿から興津宿までの宿継の人馬を手配申上げており、それが慣例として続くようになりました。
また富士山御拝領材のことがあった際、当寺四代目祐鳳は佐野法雲寺と協力して富士山へ山入りし良材を選びました。
御拝領材は富士川を川下げして清水港に運ぶのですが、祐鳳がその世話に当たり、門徒の播磨屋作右衛門(山本宗悦)が幸い廻船問屋を営んでいたので船積みして京都まで無事運びました。
作右衛門にはその功によって御拝領の栄と、巻紗綾二巻および麻上下が御下賜になりました。また祐鳳にも、木佛尊像、祖師聖人御影、聖徳太子高僧御影が御下賜になり、有り難く御安置いたしております。
四代目祐鳳の弟に秀圓という者がおりますが、寛永年間の中頃、江戸四ツ谷に諦聴寺という末寺を建立いたしました。また伊豆にも当寺と同名の専念寺という末寺が建てられました。
本願寺御代々様が関東御参向の都度、先例によって江尻宿より興津宿迄、お供と宿継人馬を御用立いたしましたが、特にさる天保四年二月、両御門主様の関東御参向の際には、三保の松原を御一覧になりたいと俄かにお申し出があったので、当寺および門徒が、御座船、御供船を差出し御馳走申上げました。その際、お目見得の上御菓子頂戴になり、山本作右衛門には往古以来の旧例として紗綾二巻が御下賜になりました。
当寺の由緒の概略は以上の通りであります。
十二月