司馬遼太郎 「三河の真宗」
司馬遼太郎「三河の真宗」
1988年4月10日刊
●蓮如と三河
仏教の目的は解脱にある。解脱とは煩悩から解放されるこ
とであり、煩悩とは人間の生命と生存に根ざす諸欲をさ
す。とすれば生きながらにして人間をやめざるをえない。
親鸞はそのことに疑問を感じたにちがいない。
小乗にせよ大乗にせよ、仏教は解脱の方法を解く体系であ
る。方法として戒律もあれば行もある。
持戒し、修業すればおのれの「しん」とも言うべき自戒(ア
ートマン)が高められていってついには宇宙の原理と一つに
なりうるという。しかしそれを成就できる人はこの世に
何人いるのか。いるとすれば何千万人に一人の天才(善人)
ではないか。~仏教はそういう善人(天才)たちだけのもの
か。 と、若い頃の親鸞は悩んだかと思える。
善人たちだけのものとすれば、人類のほとんどが無能力者
(悪人)である以上、彼らはその故をもって地獄に堕ちざる
をえない。
言い換えれば、仏教は人類のほとんどを地獄におとすため
の装置ということになってしまう。
~釈尊がそうお考えになるはずがない・・・と、親鸞が思
った瞬間に、彼は絶対の光明である阿彌陀如来という「不
可思議光」の世界が向こうからきた、かと思える。
親鸞はその光明につつまれることにひたすらな感謝を述べ
る気息としてお名号をとなえた。
師の法然はもともと聖道門の秀才だった。その意味におい
ては法然は「善人」だったかも知れず、そういう資質の良
さもあって「悪人でも往きて浄土に生まれる(往生する)
ことができる」といった。
「いわんや善人をや」、という。が、親鸞はそういう修辞
を正しくした。
「善人でも往生ができる。いわんや悪人をや」 そのよう
に理解せねば、右の光明が平等でしかも広大無辺であると
いう本質が出てこないのである。
゛変わった人間(善人)でも往生できるのだ、まして普通
の人(悪人)ができぬはずがない゛ということであろう。
インド以来の仏教はここで、天才や変人・奇人のための体
系であることから、普通の男女という「大海」へ出たので
ある。 英国人がよく言うことに、英国そのものを採るか
シェイクスピアを採るかとなれば後者をとる、という言い
方があるが、これを私は日本と親鸞に置き換えたい衝動を
しばしばもつ。
特に「歎異抄」を読んでいるときに、宗教的感動ととも
に、芸術的感動がおこるのである。
「親鸞は弟子一人ももたず候」ということばなどは、昭和
十八年、兵営に入る前、暮夜ひそかに誦唱(じゅしょう)し
てこの一行にいたると、弾弦の高さに鼓膜が破れそうにな
る思いがした。
私の家は戦国の石山合戦以来の浄土真宗の家系で江戸期は
播州亀山の本徳寺の門末としてすごした。
おそらく代々の聞法の累積のおかげで、この感動があった
に違いない。
そのことは、蓮如(1415~99)のおかげともいえる。
親鸞は教団を否定したが、その八世におよんで蓮如が
出、教団をつくった。蓮如が存在しなければ、親鸞は埋没
していただろう。
私事だが去年の秋、三河の岡崎旧城下の川ぞいの宿に二
泊した。三日目の昼、家に帰るべくタクシーをひろって名
古屋を目指したが、途中戦国期の永禄六年(1563)この野に
おこった三河一向一揆のあとをたずねたいと思い、短時間
ながら二、三の門徒寺(浄土真宗の寺)をまわった。
「上佐々木の上宮寺」とタクシーの運転手さんにいうと一
般的な名所とは言いがたいのに、すっとその門前につけて
くれたのには、おどろかされた。
三河一向一揆は徳川家康の二十のときにおこった反領主一
揆で、家康の家臣の半ばが 一揆側について~門徒であった
ために~家康と戦い、家康は時に馬頭をひるがえして逃げ
たり、またその鎧に銃弾が二個もあたるというほどのさわ
ぎだった。後年、忠誠心の強さで天下に鳴った三河人にす
れば、異様というほかはない。
むろんこの現象は江戸期の強固な主従関係やその道徳から
遡及して見るべきではなく小領主の自立性のつよかった室
町・戦国という中世の社会をじかに見て考えねばならない 。
その社会では、三河だけでなく西日本のほとんどの村落は
゛惣゛ という強固な自治制でかためられていて、当然
ながら惣は収税機関である守護や 地頭を嫌っていた。
幸い、戦国期になると室町体制の守護・地頭はあらかた亡
びるが、有名無実にまで衰えていて、そのぶんだけ惣の自
衛は強くなっており、さらに言うと惣における農民のほと
んどは弓矢や長柄を持ち、他からの乱入者は容易には寄せ
付けなかった。室町中期ごろから戦国にかけての日本は、
惣の時代だったともいえる。たいていの惣には、大いなる
農民がいた。
農民にとって頼りになる(当時の言葉で言えば ゛頼うだ
る゛)存在で、彼らを地侍と言った(のち戦国型の領国大名
が発達するにつれて、彼らは丸抱えの家臣武士を城下に集め、
それが近世武士の先祖ともいうべき存在になるが、彼らの
供給源の多くは、この地侍層だった)。地侍のさらに大いなる
存在のことを国人(こくじん)と言った。まだ松平姓だった
家康の家も地侍から出発して国人に成長し、この時期、
三河の国人層の盟主(主人とは言いにくい) とみなされてい
た。松平家は国人・地侍をその影響下に置いていたものの、
近世型の主従とは言いにくい段階にあったから、三河一向
一揆の場合、地侍や惣の農民たちが忠誠心の対象として
家康よりも阿彌陀如来を選んだところで、何の不思議も無
かった。
さて、蓮如の時代は三河一向一揆よりも前の世紀である。
ただし、すでに惣とか地侍国人が大きく力を蓄えてきてい
た。
ここにおもしろい記録がある。
蓮如と同時代の人だった奈良興福寺大乗院の尋尊(じんそん
1430~1508)が諸国の情勢や情報をあつめた記録として
「大乗院寺社雑事記」というものを書き残しているのであ
る。
その文明九年(1477)十二月十日の頃に、公方(将軍のことだ
が守護を含めた政府機関といってよい)に年貢を上進しない
国を列挙している。
北陸では能登と加賀(いずれも石川県)、さらには越前(福井
県)、近畿では大和(奈良県)河内(大阪府)それに近江(滋賀
県)また、飛騨と美濃(いずれも岐阜県)、さらに東海では
尾張と三河(いずれも愛知県)それに遠江(静岡県)この記事は
私どもにさまざまな想像をさせる。たとえば右のいずれの
国も惣の力が強く従って地侍と国人の勢力がさかんだった
ということである。
この税金を納めない地帯から戦国末期、織田氏や徳川氏と
いう強大な勢力ができあがっていったというのもおもしろ
い。
蓮如が濃密に歩き教線を扶植したのもまたこの国々だっ
たのである。
蓮如は惣に働きかけた。仏教渡来以来、寺というものは最
初は国家が造った。
平安期には豪族が私寺を建てたり官寺に荘園を寄進したり
したが、要するに寺というのはきわめて貴族的な存在で庶
民から超然としていた。
蓮如が地侍を含めた諸国の惣に働きかけた時、日本史上
最初の、それもおびただしい数で、民間寺が生まれた。
さらには、この寺々の惣のきづなの結び目になり、その建
物は自衛のための砦になった。また同信のよしみで一国の
門徒が横にむすびあうようにもなった。
有名な加賀の一向一揆(1488年に勃発)は、蓮如の本意で
は無かったとはいえ、惣という村落自治が加賀一円にひろ
がって守護の富樫氏を追い出すにいたったという奇現象で
ある。
しかも約百年にわたって国主なしの自治体をつくりあげ
た。
親鸞における平等主義と、惣が自分の寺を持ったという
蓮如的構想があってのことであっただろう。
加賀一揆のとき、三河の門徒も地侍団を中核にして、はる
かに応援に出向いた。
その後加賀共和制の影響のもとに三河一向一揆がおこった
わけで、これらのことは、室町後期に大いに騰がった日本
の農業生産の高さとも考えあわせねばならない。
中世のめざましさの 一つは庶民が真宗を得て、日本ふうの
゛個゛ をはじめて自覚したことであった。
ついで蓮如の構想による「講」を持ったことで、タテ社会
だったこの世に人々をヨコにつなぐ場ができた。さらに大
きいことは日本の庶民がはじめて仏教という文明を得たと
いうことであろう。
もう一つ言えば、庶民が日常の規律である「風儀」を持っ
たことも大きい。
そのことは、宗教的感動とともに、人が美しい高度な文化を
持ったともいえるのである。
「風儀」の扶植一つをみても蓮如は偉大だったと思わ
ざるをえない。