●非僧非俗の正当性
本願寺の僧侶は発祥のころは正規の僧侶ではありませんでした。
つまり本来の意味で正規の僧侶であるということは、奈良時代、平安時代の基準で言いますと、厳密な僧侶は東大寺か叡山で戒を受けなければいけないのです。
例えば西行は勝手に坊さんになっているだけですから僧侶じゃないのです。戒を受けるのは高等文官試験みたいなもので難しいものでした。
ですから奈良朝の日本では鑑真和上が持ってきた戒というものを基準として官僧の試験を行い、それに合格してはじめて1ケ寺の主になる資格をあたえました。
それでも1ケ寺の主は奈良朝、平安朝の頃は国家から食い扶持をもらいます。
さらには僧位僧階を持つことになります。
一説に東北地方、白河以北に正規の僧侶が行ったのは元禄時代だと言います。
それには異論があると思いますが、だいたいが東北の仏教というのは羽黒山あたりの修験者が支えていたんです。
伊達政宗が生まれるときに、伊達政宗はいまの山形県の土着の貴族ですから、安産の祈願とかいろいろ御祈祷を頼みますと羽黒山の修験者の ような人が来ます。正規の坊さんでは無いのです。
羽黒山の修験者は民間宗教なものですから正規の僧侶ではありません。
その正規の僧侶でない人を敬称を付けてどう呼ぶかと言うと「上人」(しょうにん)と呼ぶのです。
今は日本語が紊乱しまして上人というと偉い人のように聞こえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であってたとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とは言いません。
最澄(767~822)も空海も有資格者だからで、無資格者に対してはたとえば親鸞上人というふうに敬称します。
ただ親鸞の場合はときに聖人と書きます。
聖というのは乞食坊主のことです。
聖と賤は紙の表裏だとよく言いますが、聖というのは普通、中世の言葉では正規の僧の資格を持たない乞食坊主のことを言いました。だから尊くもありませんでした。
親鸞の師匠の法然の場合は、ちょっと微妙です。法然は正規の戒を受けて、正規の叡山の僧であったにもかかわらず、それを捨て黒谷の里に下りてきて大衆に説法したということで当時評判だったのです。
だから当時の人は「知恵第一の法然坊」とよく言いました。 それは要するに高文を通った人がその辺で乞食しているという意味です。
その驚きと尊敬を込めて法然に対しては上人と言います。
以下はたいへん文化人類学的なあるいは民俗学的な話ですが、仏教の葬式はなんといってもお坊さんが出てこなければ形がつかないように見えますが、お葬式屋が主です。
お坊さんは葬式屋に連れて来られます。代々の東京の人はお寺がありますが、はじめて東京に来て肉親を亡くした人がお葬式屋を頼むと「宗旨は何ですか」と聞かれて、その宗旨のお坊さんが適当に連れてこられたりします。
そのお葬式屋は坊さんに対して形の上では尊敬しておりますが、呼び方が「お上人」なのです。
私は東京で普通の町寺の坊さんを中世の言葉、「お上人様」と読んでいる例を知って、びっくりしたことがあります。
これはどういうことかといいますと、日本の仏教は正規の坊さんが葬式の主役であったことは本来ないんです。
だいたい仏教に、葬式というものはありません。
お釈迦さんが葬式の世話をしたりお釈迦さんの偉い弟子達が葬式のお経を読んだという話も聞いたことがありません。
またずっと下がって日本仏教の最初の礎であった叡山の僧侶が、関白が死んだからといって、お葬式するために出かけていったということもありません。
いまでも奈良朝に起こった宗旨は、お葬式をしません。
例えば奈良の東大寺の官長が死のうが僧侶が死のうが東大寺の中でお経をあげません。
そのための坊さんが奈良の下町に居て、それを呼んできてお経をあげさせる。
それは「お上人」ですから東大寺の仲間には入れていません。
葬式をする坊さんというのは、非僧非俗の人、さっきの「お上人」「お聖人」でした。つまり親鸞のような人です。
また叡山を捨てた後の法然もそういう立場の人だったわけです。
非僧非俗、つまりお医者でいえば無資格で診療しているようなものです。
さきほどの東北の羽黒山の修験者も浄土真宗とは関係ありませんが、非僧非俗では同じといえます。
だから日本仏教には、表通りには正規の僧侶がいて、裏通りには非僧非俗がいて-つまり官立の僧と私立の僧がいて-どっち側が日本仏教かということも思想史的に重要な問題です。
私は鎌倉以後は非僧非俗のほうが日本仏教の正統だったと思います。
もう少し歴史的な景色を申し上げますと室町時代ぐらいまで、平安時代も含めますが、京都あたりの鳥辺山とかいろんなところに焼場、葬儀場がありました。
そこに墓もあり、葬式の列が行くと食い詰めた人たちが、非僧非俗の坊さんの形になって南無阿彌陀佛の旗を持ち、「亡くなった方に供養のお経をあげますよ」と言ってまわるのです。
遺骸をかついでいる遺族たちは彼らをわずかなお鳥目で雇い、お葬式のお経をあげさせていました。
戒を受けた立派な僧侶は、そういうことはしませんでした。
日本は室町時代ぐらいから非僧非俗の人がお葬式という分野に入り込み始めたのです。
それはほとんど時宗という宗旨の徒(時宗)でした。
これは僧にあらず俗にあらざる集団でした。