首洗池直近東壇上山南端丘の上 岡部竹雲斎 本田玉

 

手つかずだった境内の仮設焼き芋店の鉄骨をようやく昨日片づけました。

太平洋岸は絶妙なお天気につき外仕事は捗ります。

だからこその「やっつけちまおう(片づけ)」という気持ちになれるというものです。

それに反して日本海側の天気ときたら朝から土砂降りの様。

そしてまた0℃に近い低温。

 

倒壊した家屋に生存しているかもしれないというつましい希望のもと縁者たちはその境遇にひたすら耐えていることを思うと私のお気楽気分は「善人こそ」を旗印に掲げていればもはや犯罪行為かも知れません。

やはり私は悪人でした。念仏するだけ。

家の倒壊から逃れたとしても集団避難場では感染症が広がりつつあるとのこと。他者のせいにするのも何ですが、国にしかできないことたくさんありますが・・・遅すぎます。

テレビから発せられる安否不明者名リストとそれを読みあげるアナウンサーの声を聞きながら。

 

念のため記しますが、暫しの間、子供たちを疎開させておきたいという方がいらっしゃればお報せください。

現状その窓口を私が持っているわけではありませんし限定的とは思いますが奔走させていただきます。

「なんとかなる」その意気でどん底から這い上がっていただきたい。

 

 

扨、東弾正山南端丘の岩手左馬之助の墓碑の隣には岡部竹雲斎の墓碑が。二者仲良く並んでいます。

その「岡部」の名を聞いてそれを推測するのは当然、藤枝岡部、元は今川衆の流れ(高天神の岡部)。

身近なところでは相良城取り壊しにやってきた岸和田岡部の流れが思い浮かびます。

 

ただし例によって判然としませんし当初は鳶が巣砦に配していてその鳶が巣で討死したという説もあります。 

「長篇長篠軍記」から再び転記すれば

「左翼軍の東弾正山の中に岡部竹雲斎盛久があり。~大須賀の手に殪(たお)れた」でした。

 

また、甲斐にも「岡部」地名は散見できますのでその地出身の名のりそれも出家名?ということも考えられます。

 

②~⑥は草ぼうぼうの頃の図。

首洗い池からの上り口が⑤。⑥は池を見下ろした図。

本田玉については小林芳春氏の「設楽原の鉛玉とその周辺」をどうぞ。