●講にみる日本のヨコ社会

 

親鸞というのはようやく暮らせる程度で一生を終わりました。

しかし勝手に法義をたてているということで叡山からは迫害されますし、その子孫というのは今の京都の大谷の地に住んでやっと食べられる程度でつないでいったのです。

そういう窮乏の家に室町時代、蓮如が現れます。 

 

 蓮如というのは、この家に生まれずに他の運命を辿ったとしても容易ならざる存在になっていたでしょう。

蓮如と同時代に一休和尚(13941481)がいて、京都の二大名物というかサルトルがいてマルローがいた時代のフランスのように、当時の京都の人にとって一休さんがいて蓮如さんがいるということはひとつの華やぎでした。

そして二人は非常に仲の良い友達だったそうです。

 

一休は天皇の落としだねという説があり、おまけに禅宗ですから正規の宗教で僧位僧階もありましたが、蓮如は「怪しき新興宗教の家系」の生まれです。

本来ならば卑しめられるべきところをそれを友人にした一休が偉かったといえるでしょう。

本願寺はこの挿話を誇りにしていて、蓮如と一休さんの仲が良かったというのは自分の中にある正統性についてのちょっとした寂しさがそこらへんでまぎれるといったこともあったかも知れません。

 

 蓮如は布教のためによく旅をしました。彼は親鸞の思想を広めやすいように凸凹を作りました。蓮如流のアクセントを作ったり、蓮如流の取捨選択をしました。

親鸞の思想というよりも蓮如の宗教になったのです。

たとえば『歎異抄』を禁書としたことも、それです

 

 蓮如が登場するころ室町時代には草っ原だった加賀の地が、やっと水田化し始めて広大な水田地帯になりました。日本の水田史で言いますと鏡のような大平野というのはかえって水田化しにくかったのです。

たとえば関東平野の水田化の成立も十一世紀と大変遅れていました。 

 

 つまり、それまで平野で稲作をする能力がまだ無かったのです。平野は悪水が溜まりそれを水はけする技術がまだ十分で無かったのです。

それより山地の方が段々畑を作り山水を上からずっと流しこんでいけば、田圃に水が溜まりますから稲作しやすい。それが平べったい鏡のような平野だと悪水よけをするために大工事をしなければいけないので放ったらかしてあったのです。 

 

 関東平野が開かれたのは十一世紀、加賀平野は十二、三世紀だと思いますが、日本の代表的な穀倉が拓かれたのはずいぶん遅れたということになります。

それを全部拓いたのは、一町歩の土地を持っていたら、甲冑を着て郎党一人ぐらいを従えているといったような零細な人たちでした。 

 

当時は農民も侍も無く開拓農民→武士でした。

加賀の武士はみな父親か祖父の代がそうした開拓農民達でしたが,そこへ鎌倉の任命で加賀国に「富樫」という守護大名が来ました。

これはあの「勧進帳」の富樫ですが人々の誰もが富樫なんかに税金を納めたくありません。

富樫なんかを追い払いたいと思っているところへ蓮如の教団が入り、ワッと広まったのです。

 

 蓮如は大変俗才もある人でした。浄土真宗独特の屋根の広い城郭建の寺院を設計したのも彼ですし、領地は要らない、信徒の中に福田を求めるというのも彼の思想です。

 

 少しずるいのは非常に有力な地侍、要するに大型の開拓農民に、あなたの次男坊を真宗に差し出しなさい、あなたの財力でお寺を一つ作りなさいというわけです。

 

 お坊さんになっても肉食妻帯を禁ずる他の宗旨と違い浄土真宗は俗生活ができるわけですから、その次男坊はお嫁さんをもらう。そして子供も生まれるわけです。

そのようになる家を狙い打ちして一族郎党全部を真宗門徒にしていったわけです。

 

 そうなれば加賀人にすればもともと富樫は嫌いだったから、いっそお寺を造ってそのお寺にお米を納めようというふうになります。

そうしたら富樫は困ります。蓮如も一つの平衡を持った人で富樫という地上の権力をおびやかすまでに宗教のパワーがふくれることを恐れた人でした。

その点は近代的な人物で坊主が大名になるようなことは望まなかったわけです。

しまいには、蓮如がそそのかしたのではありませんでしたが、蓮如の秘書をしていた者が山っ気を起こして加賀の地侍にいっせいに火をつけてまわりました。

そして富樫を追っ払い、織田信長が後世やってくるまでだいたい百年ぐらい加賀は上下無し、地侍と坊主の連合した自治制が続きました。

 

 話はそれますが「坊主」という言葉は他宗でも用いていたんですが、はじめは坊の主ですから尊敬された言葉だったのでしょう。

ところがキリシタンが布教のためにやって来て~特に真宗坊主に対してだと思いますが~坊主が邪魔だなどと宣教師達はローマやゴヤへの報告書に盛んに書きます。

ボンズという発音ですが、それがボスになったという説があります。

得体の知れない影響力を持つ人間のことをボスと言うのがヨーロッパではちょっとした俗語として流行り、やがて英語の方に入り込んでアメリカで広く用いられるようになったという説があります。ちょっと信じたくなるような説です。

 

 真宗坊主と開拓農民である加賀地侍の合議制による政治が、百年間加賀平野一帯に行われていたわけです。

ここではみな思想的な話ばかりしていますから、後に西田幾多郎や鈴木大拙あるいは暁烏敏を生むようになるのは無理からぬことでしょう。

 

 蓮如の布教のやり方は寺を中心にするよりも講を中心にしていました。

講というのは村々で、隣村とこっちの村とで連合してつくられる、信仰を語り合う場所でした。講は後に伊勢講だとか富士講だとか色々な場合に使われていきますが、元は蓮如が発明した言葉で同時に組織用語でもあったわけです。 

それまでは村には小さな村落領主として地頭がおりそれと百姓との縦関係だけだったわけです。

 

 百姓としたら講という新しい場のおかげで隣の何兵衛ともこの講を通じて友達になれるし、さらに別の大きな講へ行くとまた新しい友達ができる。

日本人が横の関係を結べたのはこの時がはじめてでした。 

日本の社会が大体タテ社会だというのは、中根千枝さんの説のとおりですがヨコ関係も講を通じてか細く存在したのです。

 

→真宗