「地震記」は当山に伝わる安政大地震の

記録です。

十代釋祐賢のとき嘉永七年(安政元年1854年12月23日)駿河湾、遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とする推定M8.4の大地震と津波に関する文書です。

丸尾月嶂の襖絵の修理記録が付いていますので当山を襲った津波の高さが推定できます。標高約6メートルの地に建つ高床の本堂の襖底部が地表より約1.5m。ただし境内は周囲より若干高くなっています。襖絵は大破とありますが流失しておりませんので寺周辺の水位は1.5~2mくらいでしょうか。

地震記 1

嘉永七年歳在甲寅仲冬之始四日当日

 

禺想山辺大鳴忽震地也萬家尽倒而老少相哭

 

泣顫僵而走漸有出其家成梁柱擁身而有吽焉聞其哭泣之声

 

而穿壁出其人護桁樤落干顔即有死又破屋 

 

助其人刻傷腰且傷足而其痛苦之者多誠害人物不少矣甚哉

 

即聞海立人心更顫倒而恭久恐懼無極也西南山有

 

扶老抱児衆人走登其山山頂浜干海潮減玄凡一里程空闊為平沙於是而衆人号泣

 

而響動郷里漁者落干海有溺死運船下干鉄錨無暇而駕長水手共向岡逃玄忽失舟

 

乃大洋起数千尋之高涛如山看頓割而二列其一涛

 

向此地来而入於河辺隣濱街上之家屋直流漂北方

 

訴揚干畠田漲還而后野人拾魚而羹啜寧甘云是苦死之故歎

 

其喪干山人如雲客松間敷草蓆竹林戴星少運膳稲愁苦無窮

 

而住干山三日又五日后漸帰干我境続結茅屋如陶穴住

 

多砕家具失物而毎事不弁也 然所遇此大災人能可伝

 

大震動之時必有海哭維有高低涛果揚矣欲逃即可登山

 

莫出干江辺嗟苦今世之人不幸而遇此危難聊所恨全罰人心之悪哉

 

可慎可怖長示不忘記也

地震記 1 よみくだし

嘉永七年(安政元年)の歳に在り甲寅仲冬之始め四日当日

 

思いもかけず山辺が大鳴したちまち地面が震えた 多くの家はことごとく倒れ

 

老いも年少の者も泣き叫び泣き震え倒れ走り ようやく其の家を出た

 

梁柱に身を挟まれうめき声あり その泣き叫ぶ声を聞き

 

壁をくだいてその人を出し護る 桁や材木が落ち即死する者があり 

 

又破れた家屋から

 

助けたその人も腰に傷を負い足に傷を負い 痛み苦しみの者が多く

 

誠に害された人 害された物が少なくなく はなはだしい

 

その時海鳴が聞こえ人心さらにふるえる 何より恐懼極り無い 

 

西南に山が有り

 

老いをたすけ幼児を抱き衆人走り登る 其山の山頂から

 

浜に海潮が減じ去りおよそ一里(3.9km)程広く空き平らな砂が現れ出た 

 

ここにおいて人々は号泣し 郷里に響きわたる 

 

漁師は海に落ち溺死す 運船は鉄の錨を下ろす暇無く

 

乗っていた水手、共に岡に向って逃去り たちまち舟を失う

 

やがて大洋が起り数千尋の高さの涛が山の如くみえ 

 

急に割れ二列となりその一涛が ここに向かって来た

 

そして河辺に入る 隣の浜の街上の家屋を北方に流し押し揚げ

 

漂って田畑にみなぎりまわっていった 

 

そのあと人々が魚を拾い あつものにして すすってみたが

 

うまいわけがない これは魚が苦しんで死んだ故と云う

 

山に人が雲客の如く 松の間に草のむしろを敷き 竹林に星をいただく

 

少ない膳や食べ物を運び うれい苦しむこときわまり無い

 

そして山に住むこと三日又五日後 ようやく我が家に帰る 

 

茅を結った小屋は穴蔵の如く 家具は多く砕かれ物は失う 

 

そして何事も不便である

 

然る所この大災に遇う人はよく伝えるべきである

 

大きな震動の時は必ず海がなき高低の涛が押し揚げる

 

逃げるとすれば山に登るべきである 川辺海辺に出るなかれ 

 

嘆き苦しむ今の世の不幸な人はこの危難に遇い

 

いささか恨む所は人心の悪かな

 

慎むべし 怖れるべし 長く忘れないように記す