秘かに背後に廻りこむ それ常道 長篠広瀬渡河迂回

 

勝手に暖かいとの思い込み、天気予報が外したワケではないのでしょうが朝は案外と冷えました。

そして午前の法要、本堂内の気温は上がらず、思わず「寒い」の声が。石油ストーブ×3台+火鉢は用意していましたが。

墓参の段となり、やわらかな日差しを浴びると御一同、息を吹き返したように笑顔となっていました。

堂内と外気、日の下では7~8℃いやそれ以上?の体感の違いを感じました。

 

私が法要後に皆さんと墓地に向かうその間、ローソクの火消しはまず奥方の仕事。

御本尊前の大きいものは私が消すこともありますが・・・

昨日は脇の尊像前のローソク(和ローソク)の芯が「飛んだ」ところを目撃したといいます。

 

ちょうどそのローソクは消える寸前のものだったようで、その下部にあった以前のローソクの芯と何らかの干渉があったのかと思います。

ローソクの芯の残り火程度の火とはいえそれが飛んで床に落ちることなど見過ごすわけにはいきません。

これまで急ぎの場合など消火に関してすべて奥方に任せっきりにしていましたが法要が終了、着替えたのち「先ずは火を消しに」と皆さんにお断りし時間を取りたいものです。

ものの数分程度のことですから。

奥方のお役目は完全消火の確認目視ということで。

 

扨、先日記した鳥居強右衛門の上陸地は地元の名は広瀬の渡し。

この川(豊川)向いの字名が「舟着」に「浜井場」。

「広瀬」地名も海岸端を連想しますがその隣の地もまた「舟附」でした。

そちらから鳶ヶ巣奇襲隊進路松山越の北側にそびえる山が「船着山」。

要はこちら広瀬は豊川の一大物流拠点だったわけで、以前は渡し場があったよう。橋が無い時代、大いにその船場は重宝していたことでしょう。

こちらを鳥居が目指して上陸する・・・地元ならではの発想でしたが、武田側としては読みが少々浅かった感。

 

もう一軒この広瀬という地に読みの浅さというものを感じるのが、あの酒井忠次(こちらも)の武田方長篠城包囲の付城の背後を急襲した件。

彼は当初の信長の陣中、極楽寺にてそのアイデアを披露。

当初は信長から一笑に付され却下されたといいますが、あとからこっそり「ヤレ」の指令があったという経緯は良く知られたところ。

それより一気に南下して豊川渡河作戦に至ったのですがそれがこの広瀬の渡し(場所はこちら)。

 

相手の背後を狙うのは戦いの鉄則。待ち伏せして右翼をというのもそれですがこっそり夜陰に乗じて後ろから・・・というのはいかにも効果的。

ですがそれを「まさか」と楽観を決め込んでノーケア、無策に至ったことは武田側の悔恨。

この作戦大成功がきっかけで武田方は馬防柵前までおびき出され大敗を喫したわけですが、この敗戦から雪崩を打って武田滅亡の結末を迎えます。

 

結局油断ということもあったのでしたが、対峙した場合の背後の警戒は鉄則でした。