160年後に家臣子孫が建碑 高坂源五郎昌澄の墓 

季節激変の様。

つい先日、室内27℃の不思議を記しましたが昨日同じ時間帯で18℃。急すぎましたね。

朝はもっと気温が低下したでしょう、流石にトレーナーを1枚着込んで外仕事。

全ての鉢植えハイビスカスをテラスに引き上げて冬対策は完了しました。一本地植えのその対策はもう少し経ってから行う予定です。

彼は結構に寒さに強いものがあります。何年も枯れずに冬を越しています。

 

ノー天気の私、季節の変化に対応できなかったか、最近の色々に体がへこたれたのか分かりませんが絶不調に陥り午後処理場から帰ってから風呂にザブンと入って床に。

風呂は不調時の私のルーティーンです。

いつもの身体が「ぶっ壊れた」と笑っていられる感じではありませんでした。

 

私が弱くなっているところを奥方が見て「お前が死んだらハイビスカスたちも死ぬな」などと無茶を言ってくれますがまぁ仕方ないことでしょう。

ちなみに最近はできなくなったことばかり「死ぬ死ぬ」口にするようになりました。

白骨の御文、無常世界を年がら年中拝読している通りです。

「われやさき、ひとやさき」・・・

 

先日あるご門徒さんから聞いた話が蘇ってきます。

ある亡くなった方のその時「自死した」であろうというもの。

「うまくやった」といいます。

頭脳は明晰のまま体が不自由になってしまったことから「これ以上家族に迷惑をかけられない」との決断の心中を察していました。本当のところは亡くなっていますのでわからないでしょうが。

ただしそうだったとしてその心境はわかるような気がします。苦しいし悔しいでしょうからね。

それまで健康で何でもチャレンジできていたのですから。

私もいつかその時がくるでしょう。それが近いうちかも・・・という思いも。

どうするか・・・長命でも痴ほうになっていたらベットで寝たきりで何も知らないうちにその時を迎えることになるのでしょうが、残された者たちの経済的負担を考えてしまいます。

子供は親の介護をして当たり前ともいいますが、以前はそれほど生きませんでしたからね。

長生きもいろいろ。何がイイのかわかりません。

ピンピンコロリか・・・そうはないですからね。また、そうさせてくれない。

よって「うまくやった」なのでした。

 

扨、古い画像を再び持ち出します。

先日は渡辺半蔵守綱と一戦まみえて討死した山本勘助の息の山本勘蔵信供の塚を2カ所記しました。

設楽原決戦場の南、連吾川の東の勝楽寺前決戦場の方でした。

その連吾川の流れの脇は現状川を挟むように周辺木々に囲まれています。

その連吾川を西に渡ったあたり、川路の小川路という地に高坂源五郎昌澄の墓があります。その父が高坂弾正忠昌信で甲府の高坂邸で生まれたとのこと。

弾正は遠州相良の城の縄張りを手掛けたと言われていますがその昌澄も相良に来ていたのかな?など思うところでもあります。

この地で徳川家臣の稲生次郎左衛門とまみえて討取られますが昌澄二十五歳のとき。父親同様美男子だったと。

やはり首実検のあと稲生は取り下げを願い手厚く葬り、時に墓に参ったといいます(場所はこちら)。

 

ただし合戦33年後に訪れた金子藷山の随筆にはこの人の墓

についての記述はナシ。

稲生の標に気づかなかったのでしょうか。

そうであったとしても地元住民の伝承33年後となれば致し方なし。金子は地域の民にインタビューしながら歩きまわったことでしょうが。

 

こちらの墓は享保二十年1735に高坂家家臣の子孫(茨城の)「白井某が建てた」ものだそうです。160年後のことです。