大高城から岡崎へ 元康の矢作川渡河作戦 渡船之所

昨晩はNHK「失われた時をこえて “認知症家族”の3年」を視聴。63歳と64歳で認知症の症状が出た女性にスポットが当てられていました。

認知症も時間を経るとより症状が進行、重度となって入院や施設入所となるわけですが「コロナの3年間」の親族との面会制限はその症状の進行に拍車をかけたのは言うまでもないところ。

 

「無常」を常々口にしている身ながらその家族たちの味わう激しい「変化」とその理解の難しさをあらためて感じさせられました。

それこそ「人の道」であることはわかってはいるものの身近な者がその道を歩む様を目の当たりにしないと本当の理解はないでしょうね。

何故なら自身が重い認知症を患ったとしてもわからないでしょうから。

 

私は父母の老病死で様々な変化と看取りを体験したわけですが今は叔母の施設入所に伴う色々についてお付き合いをさせていただいています。

数日前の郵便で叔母の介護認定の報せがありました。

ひょっとすると「要介護」→「要支援」の指定替えが発生する可能性について指摘されていましたが今回の評価は要介護認定の1でした。

指定の変更があると現在入所中の施設は退所せざるを得なくなり1から次の施設を探さなければならない(または自宅で引き取る)という面倒が発生します。

何よりもまた叔母が今、安定的健勝を維持できている―水があっている―場所を移すということが心配でした。

「好き勝手にやらせてもらっている」ことですからね。

 

しかし九十歳になる叔母との面談はコロナのせいでテレビで言っていた通りインターバルを余儀なくされました。私の場合は数カ月ぶりでしたが、叔母の場合は記憶はバッチリ、要介護3が1にまで回復し、車椅子から立って自立できそうなところまで。

まぁしぶといというべきか、当人の言っている通り「100まで」など通過点となるような気がしてきました。

 

扨、ウクライナでは例のダムの爆破工作によって騒がれていた「反撃の狼煙」についてその動向について推測が行き交っていましたが、戦国のウクライナではその各作戦の遂行のために最近よく言われている言葉が「渡河作戦」。

橋のない戦場の河川を渡りきることは進行にしろ退去にしろ最大の命題になります。

特に進行作戦において川を無事に渡りきることが肝心です。

 

最近豊田ジャンクション、豊田東インター付近について記していましたがそちらは矢作川を岡崎方面から渡ってスグの地です。

あの桶狭間の際、大高城から元康(家康)が岡崎城に入ったことは

周知の事ですが、岡崎に入るためにはあの矢作川を渡河しなくてはなりませんでした。

やはり目立たないようこっそりですね。対岸で何が待っているかわかりませんし、上陸時ほどの不利な態勢はありません。

 

岡崎とは目と鼻の先の対岸でその「作戦」を挙行する適地として、選択されたのが今の東名高速の橋が架かる北側あたりになります(場所はこちら)。

こちらの対岸が仁木になりますね。