発見 袋井市史 相良片岡半右衛門は・・・わからない

昨日は叔父に保証人を依頼するにあたり叔父が好きな愛宕下羊羹を求めて遠州横須賀に走りました。

「こんな遅くに行って大丈夫か?」と奥方を急かして11時頃に到着。やはり「一口羊羹」は売り切れになっていました。

そちらは贈答用ではありませんので当家用ですが・・・。

仕方がないので自家用に栗羊羹を所望しました。

 

息子が来春から世話になる宗教法人への提出物ですが私とは別に保証人、そして私の僧侶の証明となる書面が必要ということでした。

息子が現在お世話になっている横浜のお寺と近くの家を退去して新天地を求めるにあたり、今度の御縁のあった彼の活動場所がそちらになります。

 

彼が主体で動くのですが、あくまでもその法人との雇用契約は「拙寺と代表者(私)」ということになるようです。

幾度かブログでも記していますが「ニセ坊主、インチキ詐欺宗教ではない」という確証、要は本山のお墨付きが不可欠であるということですが「若い者(小僧)」を雇って「大穴」を空けた場合の補償確約を取って「責任の所在」をハッキリさせる取り決め書面の性質もあるのでしょう。

 

何よりも「私は僧侶です」は大抵がいわゆる「自称」であって僧形だけでは確かに疑わしいものがありましょう。

それを第三者に「明らかにさせる」ことは悪い事ではありません。名刺などまったくアテになりませんからね。

特に僧籍にあったとしても私ども親子ときたらそれを他者に信じて頂くにその第一印象は最低レベルでしょうから。

 

副住職の責任は住職の責任、住職の責任はお寺の責任。

そして檀家さんの責任にもなりかねない重大なこと。

それを証する書面となります。

彼には心して仕事に励んでいただきたい。

 

さて、先日は真夏の法多山を歩いたことを記しました。

結局かなり前の探索同様、お目当ての「片岡半右衛門」の名は見つからず徒労に終わった感が増幅していたわけですが、一昨日その名が記された書面が上記の「私の証明」になりそうなもの探しの際に庫裏の箪笥から出現しました。

 

「袋井市史」から抜粋されたであろう書面のコピーでほんの数枚。

その表題が「第二節 法多山尊永寺の桜門とその寄進者」です。

史料の提供者はきっと林氏でしょうから当初私が聞いていたというものは私の錯覚、聞き違いだったのでしょう。

石灯籠の寄進者などではありませんでした。

 

ざっと目を通すと

「尊永寺の桜門(仁王門)は、寛永十七(1640)年十二月十六日に移築(一説に播磨の二見から)再建されたもの」で「桃山時代の建築様式を伝える非常に豪壮な山門」 (間口7.2m奥行4.24mのこけら葺き)との紹介から。

そしてその門の棟札に記載された内容でした。

 

棟札表面最上段に梵字の大日如来の種子が大きく記されているとのことですが、その寺が「遠州高野山」なる云われがあることからもその意は尤もなこと。

願主が「権大僧都法印清賢」。

施主が二人「豊田郡池田郷半場善右衛門歓兼」と

「大願主帝釈天王大施主 豊田郡加茂郷平野三郎右衛門繁定」

 

後者の「帝釈天王大施主」は最大限のリップサービス、ヨイショ 

の類。

そして、半場善右衛門と平野三郎右衛門の二人は同族だそう。

平野が本家で半場はその分家。

 

記述を転記すると

「平野繁定は天正年中(1573~91) 」もと井通七三カ村二万石余の新田を開拓した家康初期の給人代官で曹洞宗加茂郷大円寺の開基家、半場は寛永初年頃平野から分出し、天竜川池田渡の渡頭(ととう)となり、これもまた同郷曹洞宗誓渡院の開基家と伝えられている。中略

寛政譜巻990平野家家譜から繁定(重定)伝(69コマ) から。

 

また棟札に繁定とありますが「大円寺過去帳」「徳川実紀」第一篇「東照宮御実紀附録」巻二四は「重定」とあるそうです。

 

その棟札の裏面が本題。

「この桜門の建設の協力者が48名の名が記されているとのことで、法多山塔頭寺院9人、森町の曹洞宗榮泉寺1人、大工5人を除いた残りの33人が中遠地区の人。

最西部は池田村の半場姓3人、最東部は日坂村の片岡姓1人、原川村安達姓1人、別に江戸の半場姓2人があるが、池田の半場姓三人の間にあるので元は池田から出府した人たち。

また、中泉秋鹿長兵衛、新貝村大草太郎馬・相良片岡半右衛門の3名だけは、前記10カ寺院名の直下に頭書されている。

秋鹿長兵衛は中泉八幡宮宮司、大草太郎馬は中泉代官の一族、相良片岡半右衛門はこの両者に準ずる者と断ぜられるから、相良港取り締まりの代官か、廻船問屋等といった豪商だったのではなかろうか。ちなみに相良町で片岡姓を称する者は2、3の新入居者のみであるという(同町役場及び史料館の言)」

とありました。

 

3人の中で片岡半右衛門のみが不明だったわけですね。

「町」というくらいですからかなり以前のもので史料館のどなたかも「わからない」というのは致し方なし。

父はこの書面を見ていることでしょうから、当然にこの記述に対しての突っ込みどころがあったはず。

ただ黙殺していたのでしょうかね。

 

拙寺に辿り着くことができれば出所に関しては判明することができたのですが。

袋井の史料にそれがあったことだけでも大きな進展がありました。しかし現物をこの目で見てみたい。

棟札だから今は門の内部に納まっているのでしょうが。

 

ちなみに秋鹿氏といえばこちら

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    がつお (土曜日, 19 11月 2022 23:54)

    今回もちょっと主旨とズレますが、例の次世代ライブラリーで片岡半右衛門を検索すると岳南史がヒットしました
    御手代片岡半右衛門へ申上候・・・
    遠州相良庄の用水問題の話のようですが、年代が寛永14年の事らしくちょっとズレるのかもしれません
    中身をちゃんと読んでいないので見当はずれかもしれませんが一応情報まで

    岳南史(最後から3行目に片岡半右衛門の名あり)
    https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1176247?page=229

  • #2

    今井一光 (日曜日, 20 11月 2022 08:14)

    ありがとうございます。
    今回も新しい。また私の知識を広げるお手伝いをしてくださり感謝いたします。
    これからじっくり紐解いていきたいと思います。