焼津市歴史民俗資料館企画展と小川城8年ぶり再訪

いつものように午前中は庫裏内片付け。

奥方は汗だくになって2階の障子貼りを。障子のボロは外観見た目がすこぶる悪いものがありますからね。

内心、「本堂やれよ」ではありますが、その件私の方に振り返されますので沈黙しています。

そちらはずっと先のことになりましょう。

 

さて、午後も3時すぎになってから「まだ間に合う」と奥方を促して焼津方面へ向かいました。

たまたま出かける前に玄関据え付けのベルを「クマよけにいかが」などと冗談で鳴らしたりしていましたが本当に昨日は焼津でクマの目撃情報があったようです。

よりによってクマが現れた焼津に居たなんて・・・

今年の日本海側と東北地方でクマの出現の多さは感じていましたがまさか・・・です。静岡であっても山城散策も今年はヤバいのかも。

 

すでに日が傾いていましたので山には行かず焼津市歴史民俗資料館の企画展「寺社からたどる戦国の焼津」に入館しました。

まずここで驚いたのは入場料が無料だということ。

各市町、史料館クラスの入館料であっても最低限200円は当たり前の世の中、こちらの入場無料はいかにもお気軽感満点です。

私は初めての当史料館の訪問でしたが、新たな発見もあって楽しい時間をいただきました。

 

企画展は学芸員の努力の賜物、その働きがあって開催成就できるものですが、ご苦労がうかがえるところといえば企画の構成は勿論のこと展示史料の借り入れと管理そして見栄えの良い解説文の作成です。

そして展示場に張り付いて時に観覧者の質問に応えること。

当然に「不届き者」の監視は怠れないところでそれは借り入れした貴重品が並べられていますので「何かあったら・・・」の配慮ですね。展示期間中は神経を使うことでしょう。

 

戦国の焼津といえばどうしても今川-武田-徳川という三家が思い浮かび城郭といえば花沢城石脇城(または方ノ上城)がどうしても想像できるところですが、私は小川の長者とその館、小川城が一番に思うところ。

また小川の長谷川といえば長谷山信香院や古刹林叟院もありました。

 

小川の「城址」といっても残存遺構は皆無で今はただの住宅地になっています。それは2012年に記したブログの通りその名を示すものといえば最近建てられた小さな石標のみでした。

ところがこちらの史料館にてその小川城の石標の隣に掲示板が建てられていることを知りましたので8年振りに寄ってみることにしました。

 

「小川」といえば古来から旧東海道「小川駅」のあった地でこの地の名称と言えばその「小川」。

海運は勿論陸運でもこの辺りの中心地であったといいます。

「長者」の生まれる地合いがあったわけですが、私はその発掘調査の経緯について知らず、その状況を撮影したものを見て愕然としました。

これだけの調査が行われ、堀などの遺構と発掘された特別な品々を拝見し、「なぜにして埋め戻して分譲しちゃったの?」と疑問と残念な気持ちが沸き起こりました。

学芸員の藁科氏も「今思えば・・・」とその時の色々な判断について「もったいなく残念」と漏らしていましたが。

 

何しろこの小川城関りには日本史上第一線の登場人物がいてそれらの人たちが「もしや大河に」ともなったとして、現場に遺構が残っていず、「埋め戻してその上に家が建っています・・・」では地団駄ものですよ。

かつての市の拙速は後顧の憂いは無かったのか・・・と私も残念に思った次第。

 

画像は小川城から発掘されたものの一部。天目茶碗の出土もそうですが、館門柱の残存物は興味深い。

他に炭化物の出土があったようで館は焼き払われているとのことですが、柱が炭化しているのか、湿潤地経年によるものかわかりません。しかし良く残っています。

 

出品物着目したのは①ちらしの表にちらっと載っています。

「大身槍 銘長吉作」<熊野神社蔵/史料館寄託>焼津市指定文化財

解説を転記すれば

「大身槍といえば一般的に穂長が2尺(60cm)より長いものをいいます。作者は室町時代に京都に住み、特に槍の製作を得意とした平安城長吉です。穂長が2尺1寸4分(70.8cm)茎の長さは51cmで長吉作の銘が彫られています。」

継承管理が十分なされた素晴らしい槍とお見受けしました。

 

また、度肝を抜かされたのは個人蔵の「太田道灌(またはこちら)の馬の轡」が展示されていたこと。

こちらは半信半疑ですがね。