瀧川助義笠井肥後相討ノ地 寒狭川 長篠の橋詰

昨日は終戦74年の記念日。

各地で「平和」を望む声があがっていました。

2回の原爆投下の日に続きお寺では昨日もその二文字を願う鐘が衝かれました。

口先だけでない本当の平和が願いです。

 

根室市で開かれた戦没者追悼式にて遺族会会長さんが先の丸山穂高なる議員(大坂19区)の例の軽口について「戦争の体験のなく、その悲惨さを知らない35歳の国会議員の発言には、一家の支柱を戦争で突然失い、きびしい生活を余儀なくされた戦没者遺族の一人として大きな驚きと怒りを禁じ得ません」が響いてきます。戦後生まれの「小僧っ子の軽口」でした・・・では済みませんね。

ここが「深い反省の上に立って」(昨日の天皇の談)の理解なのですが。その意思がわからない突飛な人多すぎ。

 

夜の「Nスぺ」の2.26事件の新資料についての番組はよくできていました。何と海軍側からの資料、それも事件前からの詳細に記された極秘文書の公開でした。

これまでよくもまぁ隠し続けられたと思うところありますが、そもそも事件発生をどうして海軍が事前に察知していた・・・というところ腑に落ちませんね。

 

この事件を境に民主的議会政治は崩壊し軍主導の好戦国家となって国と国民を悲惨に導きました。

カンタンにそれ(2.26事件)を記して「平和」を口にするのはいいのですが300万人以上の人々を死に追いやったきっかけであったことを忘れてはいけませんね。

 

私はこの2.26事件を幕末の「禁門の変と重ねてしまいます。

飛躍しすぎと言われそうですが、陸軍の長州、海軍の薩摩この場では敵対しますがいずれは挙国一致。

幕末でいえば倒幕ですね。

反乱軍には「昭和維新」なる言葉が使用されていましたし。

 

さて、台風が去った後は再び暑い日が舞い戻るといいます。

先日は寒狭峡の涼し気な図を並べましたが「暑い暑い」と小野小町の九相図の如く朽ち果て、のたうち回る当家の奥方をお連れしなくてはと・・・。

 

その寒狭峡への階段を降りると真っ先にお出向かいされるのが大きな看板と長篠界隈で見られる「かるた」風文言。

笠井肥後の美談について記されています。

 

笠井肥後が主君武田勝頼に自らの馬を与えて逃がしたあと押し寄せる敵方の衆目を集めて織田方瀧川助義と組討しともに倒れた地といいます。

 

二本の供養碑が建っていますが微妙に文字が違います。

「笠井肥後守滝川某相討ノ地」~大正3年(1914)左側と「瀧川助義笠井肥後相討ノ地」~平成元年のもの。