明治期の「滅罪檀家」(檀那寺檀家)の使用例   

江戸期の拙寺には各「御役寺」の名が出てきました。

公認の「役」を頂いたということは名誉な事でしょうし幾らかの金員も手にしたことも想像できます。

時鐘御用御林守御用そして海舩役寺の名を最近発見しました。

また役に応じたおこぼれの有無も想像できますしそれら色々を考えると結構に裕福な寺をイメージします。それなりにヤリ手のご先祖様がいらしたということでしょう。

 

何しろ城に上がって教鞭を執っていた・・・と言うことはコネもあればお給金も期待できますからね。

勤勉で学問があったことでしょう。今とは違います・・・。

もっとも新町の寺が消失して当地波津に本堂を新築するにあたり今でいう時価数億の本堂がポンと建てられる財力があったとは考えられませんので最大有徳の人としてお上(幕府)の影がチラつきます。当時の檀家数約130件少々の時代、いくら財力のある檀家さんが多かったとはいえ常識的に言って無理な話です。

それはすべて三方原奮戦により亡くなった藤蔵正義と妻の禄(釋尼妙意)のおかげですね。

 

さて、画像は明治六年に新政府が寺の檀家総数の調査を行っていたことのわかるその写し。

当時は手紙にしろ提出物にしろ「写し」を残す習慣がありますのでこのようなものが残っています。

 

こちらは某寺院のかつての総代だった廻船問屋の笠原家がその寺の小寺の光正寺に「滅罪檀家はいない」ということとその寺の滅罪檀家数を確定させる書面に拙寺11代目釋祐曜(義誉―小島蕉園が名付けた)が「右は実地取り調べ候処」間違いはありませんという証人となった書面です。

 

この「滅罪檀家」なる表現は今考えるとちょっと不思議で面白い独特の表現ですね。叔父が言うには明治以降頻出と言います。簡単に言えばいわゆるただの「檀家」(檀那寺に所属する)というこれまでの江戸期の檀家制度のそれで、これといって区別するものはないのですがこの滅罪とは浄土世界と解し来世と先祖供養の件を言います。

ところがそれとは別に人々はどうしても現世利益的発想(今の私の幸福)に向かいますがそれを一言で「祈祷寺院」(檀家を持たない)としてその祈祷(刹那)か来世(永劫)かのその目的の違いからそういった呼び方があったと思われます。

最近は二刀流のお寺もありますが・・・

 

要は江戸期は人と生まれれば100%「檀那寺」に所属していたということでそれは宗教的に100%仏教徒だったわけです。

寺は江戸幕府の民衆管理の先端的役所としてその檀家家族を管理していたわけで、特にキリスト教禁教と弾圧の中で機能していたのです。

その禁教の高札が撤去されてキリスト教暗黙の了解が始まるのが明治六年で②の「キリシタン禁教令の発布された年」と追記された文字ですが、意味としては~キリシタン禁教令の「高札撤去が」発布された年~でしょう。端折って記されています。

 

この「切支丹」に対する幕府政策は苛烈で、廃仏毀釈で打ち壊された寺々というものはおそらくその禁令について巧みに脅しに使用した形跡があるといいます。

「切支丹の疑いがあるので届け出る」の語です。

たとえば「お布施が少ない」のは「切支丹」だから・・・の論理でかなりの無茶振りで恨みは買うでしょうね。

 

キリスト教の明治期後半の爆発的浸潤はこの仏教100%が一瞬間の政府の0%指向(廃仏毀釈)を通してあったことは確実ですし、むしろまたキリスト教思想(欧米化思想)によってその廃仏毀釈の軌道修正をされて仏教は助けられたという歴史があります。

 

東京に対しての「西京府」、提出先は「浜松県」となっているところも面白い所。やはり当地の文化は遠州。浜松のウェイトが高かったのです。

 

また総代笠原家の店判も着目。

「傘に十」賢店―かしこだな?でしょうか・・・「かしこまって」の方と解釈。右に「盗人火事両損」左に「一月限無断流」か。

「一月限無断流」はきっと笠原家は貸金業をしていたかと。

 

当時の貸金は1か月返済の短期物が多かったようで、場合によっては1日~2日の返済なども普通にあったそう。

今のように長期に貸借関係にあるということはありえない時代でした。

金を貸し出すにあたって預かった担保の品は「断りなく流します」を看板にしていたのでしょう。「一月」という長期貸借がウリだったのかも。