「筆舌に尽くしがたい」という言葉を被災地報道の中で聞きましたがまさにその通り。
視界の悪いながら暗い朝を迎えて徐々にその状況が伝えられてきましたが、あのテレビ画面の姿は、日本中どちらで起こっても不思議ないこと。ただ最近よく耳にするようになった「線状降水帯」の仕業ですね。
現状、正確な被害状況は把握できるはずもなく、被災地の方々は難儀を強いられるわけで何とか早く対策を練って早急に動いていただきたいと思います。
自動車での商売優先という意気込みはわかりますが、自国民災難というこの時期、日ごろ国家国民の生命一大事を発するお方(総理殿)のなされる事とは違うような・・・。まだ泥の中で救助を待っている方が大勢いるといいます。
EUのお歴々もそのあたりのニュアンスは受け入れてくれるはず。
「外遊」という字面も庶民からすれば「気ィわるい」ですね。
悲惨のニュースの合間に自己の仕事の成果を吹聴する声高の様子に違和感を思うのは私だけでしょうか。
もし私が何かご注進できる立場だとしたら・・・
早々に「欧州大返し」くらいの勢いで帰日し、ネクタイなどむしり取って作業着に着替えてから(恰好だけでも)スコップの1本も持って現場指揮でもすれば「支持率up!uo!」と。
泥の一杯もかぶるくらいのパフォーマンスがあれば「尚ヨシ!」でしょう。確実に5%はあがるでしょうね。
問題噴出のあの女史(防衛大臣様)もたくさんの自衛隊員を現場に配しているのですから指揮官「統制者」をチャレンジすればやはり国民は唸りますね・・・飛んでくるかどうかわからないようなお隣の国のミサイルについて何か仰っていましたが・・・
しかしダメですよハイヒールでは・・・「長靴」は持参してください。間違っても担がれたりでもしたらもっとブーイングが鳴りましょう・・・
やはりやはりそれを実現したとしても「邪魔!!」と現場から声が出るかも知れませんが。
そもそも「目線」が違うからそれらはムリっていうものでしょう。ただし昔から「イザというときに寄り添わない指導者」は「いらない」と聞いています。
ところが今上天皇は少々違いますね。
もう既に慰問スケジュールをたてているやも知れません。
もし先に行かれたとしたら政権は大恥をかくことになりますから、それだけは何とかストップさせるでしょうね。
さて先日、奈良県橿原市今井町の称念寺本堂解体工事の報がありました。昨日に続き今井町です。
称念寺は何度かお邪魔していますが(こちらまたはこちら)私の父も母を連れてピンポイントで訪問させていただいているお寺です。
もう20年以上も前になるでしょうか父は先々代の住職と色々お話をさせていただいてその時の様子を感動して私に話していたことを思い出します。
そういうことから私も父にならってこちらには是非にということで家族で、あるいは「奥の墓道氏」を伴って向かっていました。
私は先代の住職とも現住職とも立ち話程度ですがご挨拶させていただいています。あの時は現住職に突き付けられていた難題とそれを解消していこうとするバイタリティにさらに感動させられたものでした。
その報じられた内容ですが建替え工事(と言っても旧材利用の)中の本堂(重要文化財)ですがその上棟式を迎えたということの他、本堂の建立時期が「江戸初期の建築を裏付ける墨書」が出たというものでした。
橿原市教育委員会の記した称念寺掲示板(平成14)にこういった一文がありました。
「本堂は真宗寺院の典型的な平面を有し~当初の形態をよくとどめ十七世紀初期は降らない建物」いま一つの掲示板では「本堂の建立時期はあきらかではないが・・・」です。
要は「1600年代初期の推定」ということです。
解体の途中、棟木についての発見はなかったとのことですが、内陣と外陣の境の建築部材から寛永十八年(1641)の墨書を発見したとのこと。
これにより本堂建立の時期が確定したわけで書き換えあるいは追記が色々と必要になりましたね。
その年の拙寺の事象といえば釋宣如(教如の三男)花押付きの「本證寺下遠州榛原郡相良庄新町」の書面、現在の本堂木仏尊像(本尊阿弥陀如来)の認証を受けたことがあげられます。
先般称名寺にうかがった際は工事開始の時、それから解体と発掘調査を経て今回の上棟となったわけで完成が平成34年といいますからかなりの長丁場。総事業費は20億円余りとも。
ここでも気が遠くなるような数字を見ました。
元号も変わる事が決定しているようですから、この完成時期の数字も変更しなくてはなりませんね。
HPがあることをわすれていました(→称念寺サイト)。
画像は過去のもので失礼。
今のグーグルマップを見れば素屋根に覆われている様子がわかります。
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