松下氏からの宿題   いいお日和につきさらっと

いよいよ遠州を舞台とした大河ドラマが始まります。

「通好み」ともいえなくもない戦国史で採用が決定した時は嬉しいのと同時に「あまりにも唐突」とは思ったものです。

おかげで御前崎での「新野左馬助」の名は一気にメジャーレベルに急上昇し、今やそれで町おこしをしようと盛り上がっているようです。

それまではおそらく御前崎市民の95%以上がその名を知らなかったのではないかと思います。大河ドラマ恐るべし。

 

「遠州忩劇」と言われる今川氏真というか「東海一の弓取り」と呼ばれる名家今川氏の終焉期の西遠江、頭陀寺において、若い頃の秀吉(木下藤吉郎)が仕えたという松下之綱があります。

その松下の出自としては三河「松下」経由で(名をそちらで変えて)遠江に流れた系統と。近江は蒲生郡の西條氏が大元といいますね。

 

そこで左の「近江佐々木南北諸士帳」の8 蒲生郡を・・・

 

「丸山 佐々木義輝公随兵 西条壱岐守」

                とありました。

松下氏は私ども東遠土着組と同様に近江出自というのが通説ですね。

 

その松下氏ですがこの相良地区にもやたらと多いのです。

あいにくと拙寺御門徒さんでは見かけませんが・・・

こういう場合、頭陀寺松下の末が高天神経由で流れて一部この地に土着して繁栄したと推測するのが正当なところ。

 

まずこの件を

「藤田鶴南 高天神の跡を尋ねて」に

「高天神城籠城将士の知行地・居住地」を概説した部分があります。

 

渥美源五郎   上土方    渡辺金太夫   下土方

池田縫平    毛森     斎藤宗林    下方   

大石外記    報地      木村長兵衛   三俣

松下平八    新野      川田平兵衛   菅ケ谷

曾根孫太夫   朝比奈     鷲山伝八郎   奈良野

黒田九郎太夫  平川      糟谷清太夫   嶺田

松下助左衛門  岡山      丸尾義清    赤尾

本間氏清    高部      岡部真幸    鎌田

中山是非之助  湯日      永田太郎左衛門 丹野

糟谷善左衛門  西郷      孕石主水    原泉

栗田刑部    平尾      小笠原氏清   畑ケ谷

 

高天神城の周辺にすでに松下氏の名が2名ほど見えますね。

特に新野の松下など、東遠江に足を踏み込んだも同然ですね。

「岡山」は袋井の地名でしょうか。

土着帰農した氏族もあれば紀伊はじめ全国に展開していったことでしょう。特に武門ともなれば主君転封と一所するのは絶対で一族遠方に向かうことになりますし、残る者従う者各存在したことでしょう。

 

以前相良近隣の「松下系」について「その家紋を調査せよ!!」の指令がありました。

そのことは頭の中にありましたがずっとサボっていましたね。

近所の他の寺の墓地を顔が知れた私がカメラをぶら下げてうろうろするのは少々気が引けますから。

 

昨日は予定なしの完全オフ。そして、なんとも快適、無風・快晴・ボカボカ陽気で、踏ん切りをつけて「ちゃちゃっと」お隣の墓地へ行って使命完了させていただきました。

 

それでは結果発表です。

ざっと100少々の家名の判別しうる墓石を見まわして、16件ほどの松下家の墓石。

家紋の種類は画像の通り6種類に別れました。

 

①丸に三つ柏 1件

②丸に抱き茗荷 2件

③丸に木瓜 8件

④丸に片喰 3件

⑤丸に剣片喰 1件

⑥丸に三つ割り剣片喰 1件

 

パッと見、ハッキリしませんね。他でも使われるオーソドックスな「木瓜」が多いですね。④⑤⑥は片喰の派生。

西伝寺の松下家の家紋は佐々木源氏を匂わす「丸に隅立て四つ目」でした。

上記 松下之綱リンク先の墓地は西伝寺ですが、もっとも新しい墓石にのみ家紋が入っていました。

古い墓石には家紋など入っていません。そのこだわり(墓石に彫る)は今ほどなかったように思いますね。

ちなみに私ども伝来の墓石にも家紋は入れていません。

 

いつものことですが、新家となって新仏が出た場合、大抵は49日までに墓を建碑することになりましょうが、実は「家紋は・・・?」の提案をするのは石屋さんなんですね。

それで慌てて施主が本家の家紋を見に来るわけですが、その際案外見間違えたり、わかったつもりで違う家紋を伝えたり、そもそも石屋さんが間違えたり「かなりいい加減」ですね。

 

そんな感じで「適当だった」ということが考えられますし、別系統の松下ということもありえます。

ましてや明治初期に「平民苗字必称義務令」という法律ができて強制的に苗字をつけさせたという経緯がありますが、それもまた名のりにあたってかなりテキトーだったということがありました。それは以前もどこかブログでも記しています。

たとえば庄屋等地区の実力者と「みんな同じ」にするなど・・・

 

四ツ目の画像の隣は太平記英勇伝の松下加兵衛之綱。

ウィキより。

「首帳に記入する」・・・勇猛さに几帳面なところを描いた図でしょうか。

 

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (火曜日, 20 12月 2016 08:46)

    ありがとうございます。

    元々近隣にいた松下氏(平八+正綱)から浜松よりのー族(助左衛門範久とその義兄弟の之綱、清景)が出て、後者からまた新野近隣に帰ってきた(例えば新野のお医者のー族)との仮説を立てていました。

    これだけばらばらだと、多分元々家絞のなかった松下氏のところに西條氏の四つ目が伝わったとの説が自然かと思っています。

    なお、浜松のー族の先祖の墓は、馬伏城近くの昌福寺(正福寺)と伝わっており、助左衛門の家が本家のようです。ですので頭陀寺が強調され過ぎるのは何だか、な感じです。(秀吉のインパクトが大きすぎですが)

  • #2

    今井一光 (火曜日, 20 12月 2016 10:37)

    ありがとうございます。
    西伝寺の新しい四ツ目の入った石塔は大正時代建立だったと思います。
    近年になって各情報を得てその主張(家紋)をされたとも考えられます。
    「本末転倒」の例でしょうね。出世頭の系列が本家ということに収まってしまうのでしょう。しかしちょっ漂わせているのが「之綱」の「綱」です。
    「綱」の字は近江佐々木の通字にも準じた文字で、意識的に使用したとすれば、当初から家紋といえば「四ツ目」という家中での暗黙の了解はあったかもしれませんね。