「畢竟」つまるところおまかせ・・・私  なげやり?

「ヤクルトは体にイイ(腸内細菌の件)」ということで途中ブランクもありましたがかれこれ30年ほどのつきあいをしています。その結果ここまで「健康が保てた」と思えば効果あり、「関係ない」と思えば無駄、そんなレベルでしょうか。

 

私がそもそもこれを配達のお願いをしだしたのはただ配達担当者に「ヤクルト戦チケットくれ!」のためでした。

要は「タダ券」ゲットですね。

学生時代は新聞屋さんの勧誘競争も結構激しくて、友人の奥の墓道氏などは3か月おきに新聞屋を替えていました。勿論景品欲しさでした。ちなみにNHKの「集金員との闘い」はそれぞれ爆笑の問答を見せつけていました。

 

その流れで今もずっとその習慣が続いているのですが、冗談でも神宮球場に行こうなどという気はさらさら起きなくなりました。

殆ど野球をのんびりとテレビ観戦することも無くなって興味というものも徐々に失せてしまったのでした。それはサッカーもしかり。

野球でしたらただ優勝はどちら?・・・程度にのみ目が行くだけです。Jリーグなどそれすらも思いません。神奈川在住の頃は球場に通っていましたが・・・変わりました。

 

ということでここのところ気づき出したのですが、セリーグでしたら「優勝は広島カープ」が一番気分がイイと。野球興味の復活のきざしでしょうか。

 

特にカープは市民主体のチームと聞きますし、何よりも原爆投下の被災から立ち直ろうとする過程の中で広島の人たちが育てたチームとのこと。

考えるに広島の件は、広島人限定の被爆とは言えませんし私も勿論日本人全体がヒロシマをもっと応援してもいいのかと気づいたところです。

特に広島のご年配の方が野球の結果に喜ぶ姿を見て、ああよかった・・・とこちらも喜ばずにはいられません。

特に今年はアメリカ大統領が広島を訪ずれた年ですからね。

ヤクルトは今ただの健康飲料の習慣のみ。

 

年を取ったせいで熱くなって何かを求めるものが少なくなったということでしょうか。

ただ、古い「墓石」「墓碑銘」「沖縄」への執着心は残っていますが。

 

さて、標記「畢竟」~ひっきょう~という語、なかなかお目にかかる機会は少なくまた読みづらい字ですね。

私ども真宗では、「それ読めないとヤバイ」レベルの頻出の語ではありますが・・・

特に当流一番の手身近経本、「同朋奉讃」形式の「正信念仏偈(正信偈)+念仏+御和讃+回向」のうち「浄土和讃」六首の部分ですがその「弥陀成仏のこのかたは~」以下二首~六首までの「帰命せよ」で締めるその「帰命」連発の五首目

 

「 清浄光明ならびなし  

   遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば  

      一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ  

          畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ 」

に登場。

「畢竟」とは「最終的に、結局、つまるところ、要するに・・・また究極の・・・」という意味があって現代用語としては廃れているようですが、その語は歴とした歴史ある日本語です。

こちらの和讃の意味とすれば・・・

「最終的に依るべきもの」=阿弥陀仏なのでした。

 

「帰命」とは正信偈の冒頭で、色々な難しい解釈もありますが私は単純に「おまかせする」が一番好みですね。

「帰命無量寿如来」=「阿弥陀仏におまかせする」です。

 

今檀家さんに「・・・どうしたらいいですか?」と真顔で聞かれてもその言葉(「おまかせします」)を使うことが多いため、却ってどうしたものか悩んだり「いい加減な坊さん」という烙印を押されているような気がします。

 

ということで「結局はまかせる」「要するにまかせるほかはない」ということで当流は「絶対他力」の宗旨ともいわれているのです。

 

画像は先日訪れたお客様より「本通りから入ったら素晴らしい景色だった」と褒められて図に乗った図。

②の図は歴史的にも名を残し、数多の災禍をもたらした台風10号の8月20日の進路図。

異常の気配を感じ画面をキャプチャーしていました。

当初はいつもの逆方向から沖縄に狙いを定めているようでしたがその後反転して初の東北地方に上陸となり、人命を損しインフラをズタズタにしました。

自然現象は「まかせる」というよりも人間には「手も足も出ない」というのが現実。