「新日吉」=いまひえ 「樹下」=このもと

昨日はまた人ごみで「新種の暴発」がありました。

商店街の祭りで火炎瓶とは恐れ入ります。

たしかに「祭り」というものの受け取り方は様々で「やかましくてウザったい」という気持ちも大いにわかります。

しかし「そこまでブチ切れること?」なのでしょうか。

最近は本当に自暴自棄になって心身爆発させる事例をよく見るようになりました。

 

つくづくその爆発はソフトターゲーットへの憂さ晴らしではなく、もっと「カンタンではない強い者」にその怒りを向けていただけないかとも思ってしまいます。

安直に事を考えすぎなのですよ。みなさん。

強い者に尻尾を振ってばかりで女子供や障がいの方や肢体不自由の者にしか怒りをぶつけられないなんて、まさに「弱い者イジメ」。

一歩離れた位置から自分の道化振りを見るという訓練が必要です。

 

違法行為はイケませんが、特に最近は強者に立ち向かうという気概が欠けていますね。まずは手頃な近くの寺に行ってその難題をぶつけてみてください。坊さんなんて一ひねりでしょ?

自分をぶっ壊してまでしてやる事は他にあるはずです

 

私もこの年齢になるとやはり人混みは忌避する傾向になっていますが、特にこれからの夏場恒例「花火大会」は嫌ですね。困ったものです。

それはあの「ドカーン・・・」にネコどもがパニックになって走り狂って家の中が無茶苦茶になるからです。

彼らにとってあのストレスは過大でしょう。

些細な音でも反応するように出来ているあの聴覚ですから。

心臓がバクバクになっていますので寿命も減らすのではないかと思ってしまいます。小動物には大変申し訳ないイベントです。

 

何より煙にしてしまうおカネが勿体ないということもありますが密かに私が思う「止めてもイイもの」の一つでもあります。

年配者の中にはアレに爆弾投下を思い起こすという人もあるといいますね。

 

煙といえば「SMOKE ON THE WATER」=「Deep Purple」をまた思います。何度か記していると思いますが「奥の墓道」とは再結成後のオヤジ化した欠落メンバーを見に行った覚えが・・・。

 

歌詞の「煙は水の上 炎は空の中」はでまるで花火大会のようですが、私はその歌詞から隅田川を覆った東京大空襲の焼夷弾や広島長崎に落とされた原爆まで飛躍して想像してしまいます。

そして亡くなった人々を野焼き火葬する「煙」まで続けて連想。聞いた話で実際に目にしたワケではありませんが・・・

 

先日行った品川、桐ケ谷村の荼毘所の「桐」が「霧煙」で

京都千本通り船岡山の北の「紫野」が荼毘所の「煙」と考えれば「Deep Purple」というもの自体が、「荼毘の煙」と示唆しているように勝手に思ってしまいます。

 

また特に彼らの曲で「Burn」、日本語で「紫の炎」の歌詞の中に

このような感じのものがありました。

「皆口々に言う。あの女は呪われている、・・お前を焼き尽くすことになる」そして「警告があったが気にも留めなかった・・・」

強い女も出て来るご時世ですね。

 

この部分はまるであの新任の防衛大臣を言っているようにも聞こえてしまうのは私の杞憂?。

交戦好きそうな発言が物議を醸していますが、敵意むき出しの口調です。どちらの世界でも女性の進出は悪くないですが、安全と平和の意識からは相反する議員さんのように感じます。

ただ強い者、勢いのある者に尻尾を振るが如くの虚勢でしょうが、紫色の炎で焼き尽くされるとしたら御免です。

戦争の災禍への誘導は勘弁していただきたいですね。

きっとまたその尻尾を出すでしょうね。

 

さて、標記「新日吉(いまひえ)」と「樹下(このもと)」は普通の読み方でいえば判読不能です。

これら神社が京都の東山にあります。

通称「阿弥陀ケ峰」でいわゆる荼毘所。広く円山公園の山麓あたりから清水、阿弥陀ケ峰と連なる東山の一帯は「鳥辺野」(鳥野部)といわれる葬場です。

以前記した秀吉の輪廻転生ラインの線上にあります(場所はここ)

 

「樹下(このもと)」は後世秀吉の旧姓「木下」からのこじつけですね。「新日吉」の「新」が「今」で「日吉」の「ひえ」とは「比叡」と同源とのこと。比叡山の守護神だそうです。

新日吉神社由緒書によれば秀吉の幼名である「日吉丸」で家康の手で廃された豊国神社が秀吉の旧姓木下から「樹下(このもと)」という名に変えて新日吉神宮内に存続していたというダブルの掛け合わせは、知っている人が見ればわかることで秀吉奉讃神格化も大々的ではないという事もあって幕府の許容黙認があったのかも知れません。一時は秀吉の神格化は嫌って「豊国大明神」の名は取り除かれで仏式を徹底させたほどでしたから。

 

そもそもが、新日吉神社はさらにその上阿弥陀ケ峰山頂に遷された秀吉の遺体への参道を塞ぐために現在の位置より南側にあったようですが明治になって豊国神社(とよくにじんじゃ)が再建された時に新日吉神社も再建されたものです。

秀吉関連は彼の輪廻転生の意図から江戸時代を通して有耶無耶にされていましたが、明治期になって秀吉恩顧の大名たちの子孫の肝いりで再建されたという経緯がありました。時代も対外政策がイケイケ気分の蔓延していた時代で、秀吉に学べ風の強硬路線を歩んでいた時期です。

 

七条通を京都駅から左に京都博物館、右に三十三間堂を見て進んでぶつかった辺り、ちょいと左に・・・交差点を渡ってから緩やかな坂を上がっていきます。

途中お西(本願寺)系の「京都女子大」の学生さんたちの列に準って歩を進めて行けば鳥居が見えてきます

境内の「サル」はひょっとして秀吉を表わしているの?と思いますが・・・よくわかりません。

最後の画像奥が豊国廟、阿弥陀ケ峰参道になります。