盂蘭盆の「そもそも」は亡き母への存念 清凉寺

どこかでも記していますが、当山の盂蘭盆の「期間」のくくりは6月末~8月15日とかなり広範囲。他宗のお寺さんからいえば「デタラメ」と言われても致し方ありませんが、私から言わせればその「時間」を決めて「来てくれ―御馳走食べてくれ―食べたら帰ってくれ」というのもいささか「変じゃねぇの?」という勝手な疑問と、いつでも手を合わせる機会はあるべき、と思うところと、当地は盂蘭盆が7月と8月に分かれるという地域性があるからです。


一昨日のニュースでラマダン明けについて語っていましたが、この時期でそれがあるということに仏教発祥の地で行われた「断食」とその関連性は案外「無きにしもあらず・・・」と感じたところでした。

元ネタは釈迦の弟子の目連の母親が、佛法によって餓鬼道から救われたということだといいますが目連のしたことといえば断食明けに腹を空かした同朋に御馳走を振る舞ったとか・・・それから一般に「お盆」になると何故か「先祖供養」のならわしとなっています。

真宗ではその「先祖供養」とは参拝する自分自身へ向けた反省と感謝が重点になるわけで、まずは故人の追善では無いのですが、そのタイミングは365日いつでもですので、その期限を決めているというのもどうも腑に落ちなくなってしまうのです。

ということで真宗の盂蘭盆は「普段通り」が正解ですね。


面白いのは目連の場合はその「母親」の来世での消息の件から始まったのですが、一言で言えば「亡き母への思い」ですね。

本来は母親のことだったのが知らないうちに「先祖」ということに変わったという事ですが、これは穿って考えると「男ども」の僻みだったのかも知れません。

そう、子どもたちは母親の事は思い返しても父親に関しては「眼中にない」のでした。


正直言って、子供のころから父親より母親からの愛情を感じて育ったものです。よって早くから母親を亡くした子がいたりするとそれはそれは痛ましいことだと感じたものでした。

たまたま私の母親は健在ですが、もう私の年代に入ると両親を亡くした方も当然の如くあって、特にその感情(母親偏重の感情)は無くは無いのではないかと思っています。


亡き母への感情がより亡くなったあとに深くなるのをわかっているのなら健在であることを幸いに「今」を大切にしてあげればいいのですが、なかなか思うように行きやしませんね。

普段通り、やれるように「その時」を迎えられればいいとは思っていますが。

ただし最近はひょっとして「自分の方が先かも?」などと思うこともしばしば。すべておまかせしています。


さて、画像は昨日の清凉寺の続き。

境内に建つ石標ですが、母親への思いが端的に。

「あみだ 母みた 母みた」です。

清凉寺の大念仏会を創始した円覚上人が元々は生き別れになった母親と再会するハッピーエンドの縁起があるそうですが、私は、念仏を広めている中、大衆中に「母の姿」を見かけた感動を歌ったと感じますが。勿論その見かけとは他人の空似、亡き母親を念仏の中に見出したというような。その方がインパクトありますがね。

この円覚上人の話から観阿弥は『嵯峨物狂』という猿楽能に、世阿弥は「百萬」という能に仕立てたそうです。


「百萬」トーリー概略は

大和国吉野に住む男が西大寺の辺りで親とはぐれた男子を拾い、たまたま嵯峨野・清涼寺へやってきます。清涼寺では大念仏が行なわれていて集う人々の中にひときわ上手に念仏を唱える百萬という女がいました。

その女は夫とは死別し、一人残った子供とも生き別れてしまったというところ、念仏し舞を舞えば必ず子供に遇えると専ら信じて奉納すれば、その思いが成就して再会。仏に感謝して二人で故郷に帰るというものでした。


並んで建つ右図も歌碑

「釈迦も粧(よそお)う 初秋の襞(ひだ) こまやかに」 海道

「もろ蝉に息あわせ聞く 釈迦若し」 佳子


ちなみに御開祖は父も母も早くから分かれていますが、その思いは同格で父も母も同一に「聖徳太子」に向けていました。


救世観音大菩薩

聖徳皇と示現して

多々のごとく  すてずして                                                 阿摩のごとくに  そひたまふ


無始よりこのかた この世まで  

聖徳皇の あはれみに          

多々のごとくに そひたまひ   

阿摩のごとくに おはします


大慈救世聖徳皇   

父のごとくに おはします      

大悲救世観世音       

母のごとくに おはします