小西行長(アウグスティヌス)と堺

私のハンズ時代に色々教わった職人に、豊田のおっちゃんという人がいました。大阪堺の出身で専門は包丁。酒好きでそれが災いして私が退職した直後に亡くなったとの報せをうけました。

昔のハンズはどこにも「職人あがり」がゴロゴロしていて面白かったですね。


勿論おっちゃんは包丁コーナーに常駐し、販売とそちらに設置されたシンクに水を張っての包丁研ぎサービスをしていました。

デパートの包丁コーナーにはその手のものは無いですね。


私はそのおっちゃんとのつきあいがあったために、その包丁販売の接客と刃物の良し悪しをのぞき見し、彼が休日等で不在の時には見よう見まねの話術と俄か知識でもって包丁を売り捌いたものでした。また、当時刃物コレクションにハマりましたがそれはこの影響でもあります。調子にのって包丁はじめサバイバルナイフまで購入していました。

それが遺伝したのか息子の高校時代、刃物を持ち歩いていたことが発覚し、かなり冷や汗をかいたものです。

今考えると家の中に刃物がゴロゴロしているのは教育上良く無かったことです。


今でこそ堺は包丁の産地になっていますが本来は鍛冶屋集団の存在から。

国友同様、鉄砲産地として戦国期に繁栄した町でしたね。


さて、薬の商いを家業とする家に生れた小西行長ですが、たまたま行った備前にて商売で武家との関わりを持つようになってその才覚を宇喜多直家に見込まれて武家へて転身したという経歴の持ち主です。

一説に家伝の製造技術から作った「目薬」が播磨で大ヒットして財を築き国人レベルまでのし上がったといわれた黒田家も「薬屋」さん?。ドラマではそれをネタにおちょくられていたシーンがありました。

薬商が世間様から引っ張りだこになってそれが出世の早道だったのかも知れないというエピソードですが、そういうことからも当時の人々の願いは富裕貧窮老若男女問わず何と言っても今以上に健康を維持することだったのかも知れません。宇喜多直家は幼少の秀家を残して病死しています。


小西行長を引っ張った主が戦国下剋上の梟雄といわれる宇喜多直家であったということもその後の人生を分けた一因でしょう。直家は花房職秀(司馬遼太郎「助兵衛物語」)の能力を見抜いて抜擢していましたが、殺しと策謀のテクニック同様、適材適所人材の登用力もあったのでしょう。


また、小西の場合はどうしてもその出身が堺であり、そこでの経験が出世に大きく左右したのだと思います。直家の代理で出向いた秀吉との面談で次の主、秀吉に見込まれることになったのでした。

ルイス・フロイスが「東洋のベニス」と言わしめています。

「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」です。

堺は中国の明、朝鮮、ポルトガルとの交易の場であり、経済的繁栄は勿論のこと多文化との交流の場でもあり日本で唯一の新しい技術、発想が仕入れられる地だったのでした。環濠都市化し「会合衆」として選ばれた商人の代表が治めるという形態を整えていました。


国友同様に鉄砲の産地であり尚且つ、日本の富が集積するその場所を信長が目をつけないわけがありません。信長はこの地を自らの配下に置いて、鉄砲と同時に堺の顔であった文化、茶の道にハマりこんで、以降、その道が戦国武将の嗜みになっていったのでした。


息子と向かった堺の図。堺の小西行長屋敷址(場所はここ)。

デカイ道路~紀州街道~の歩道に石碑と案内板が立っているだけ。当時はこの街道筋で商いをしていたのでしょうか。

跡形もなくその過去の有様をうかがい知ることはできません。

お魚は昨日差し入れられた「ビン長マグロ」。解体ショーは遠慮して私は包丁研ぎ役。ほんのり桜色の白身に骨の廻りをスプーンでそぎ落としてネコたちにもとびきり新鮮のおすそ分け。ご馳走さまでした。