三方原 味方原

小和田先生の著 「三方ケ原の戦い」 1989年学研
小和田先生の著 「三方ケ原の戦い」 1989年学研

昔は人の名もそうでしたが地名などは今でいう「当て字だろう」と思うような字が使用されていたことが多く見受けられます。

あの家康が忘れることのできない散々の負け戦の「三方ケ原」という地を文献など眺めていると「味方原」と記しているものが多く見受けられます。

当時は書きものに記すことなど滅多に無いことで、民間レベルでは口承、口伝が主。字がどうのなどという感覚はまったく有りませんでした。

 

徳川方の気持ちとしては浜松城籠城組約8000に対して武田本体27000+別働隊数千に攻めたてられることは悪夢だったでしょう。

近隣の諸城が次々と武田勢に落とされるのを目の当たりにして、その総大将たるものの焦燥感は狂わんばかりと推し計られます。

よって居城浜松城の鼻先を掠めて目前の台地を上がっていく武田の軍勢を見て、台地を降りかかる時に背後から追い立てようとする戦法は決して間違っていないと思います。プライドを保つための一瞬の勝機を描いたとは思います。

  

また、その勝機に家康には「御味方」(勿論織田信長のヘルプ)の登場しか頭に無かったでしょう。

いくら伝言系が確立していようが、実際の織田勢のヘルプは3000ばかりでしたがそんな少ないはずは無いと・・・、家康には「御味方」「御味方」という気持ちが頭を巡っていたでしょうね。

その到着を見越して例の台地上の「鶴翼の陣」となったのでしょうか。

 

実際問題として当時の信長勢の事情は畿内から三河まで信長包囲網に各所で戦闘があってここ遠州まで援助ができるほどの余裕はありませんでした。

よって決戦時、信長のヘルプは3000止まりで家康勢、御味方併せて総勢11000名。

 

そして家康の「鶴翼の陣」は総勢の優勢、余裕ある、ややもすれば相手を見くびった(威圧的な)陣形です。厚みのある鶴翼で敵勢をまさにその両翼で覆い被さる様な攻撃が出来れば勝負は圧勝でしょう。

しかし、約3倍に近い相手で、台地上に家康勢が上がってみれば追い落とすどころか台地上で「魚鱗の陣」を敷いて家康勢の上がってくるのをお待ちかねだったのです。

信玄の「魚鱗の陣」は防御を主体とした保守的な陣形で、相手の勢力優勢の場合にとる謙虚なる陣形です。

勢力の劣る家康軍が鶴翼、その3倍の勢力の信玄が魚鱗では大負けするのは火を見るよりも明らかです。

壮大な魚鱗の陣形を包み込まんとする鶴翼は、いかにも伸びきった戦線であり、薄っぺらい紙の様な弱さだったと思います。

 

信長支援のアテが外れたとはいえあの家康がこんな無謀な戦いを挑まなくてはならないほど追いつめられていたのですね。

 

「味方」の字を「味の方は・・・」と解するとまずここの三方原じゃがいもは結構いけますよ。

私の一番のおすすめは東名三方原PA下り車線の「みかたがはら食堂」ですね。東名高速道路上ですからこの食堂は三方原や浜松城の散策とは別の機会になりましょうが、お腹を空かせてこの小さなPAへ寄ってみてはいかがでしょうか。どれもおいしそうですが私はトンテキの定食でした。場所はココ

てぬぐい好きの私は顰(しかみ)像と例の言葉が記されたてぬぐいを購入しました。1000円でした。