蓮如上人『帖外御文』の
「夫(それ)一向宗と云、時衆方之名なり、一遍、一向是也
其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」
と記された「ばんばの道場」とは蓮華寺のこと。
蓮如さんは親鸞聖人を開祖とする絶対他力の称名念仏、「一向専念無量寿仏」の教えとこれまで流布していた同じ念仏集団(踊念仏)で一遍上人(1239-1289)の時宗系一向宗や一向俊聖(いっこう しゅんしょう1239-1287)の遊行から始まった道場の一向宗とは「違う」と言いたかったのでしょう。
しかし世間ではそれらの教えを一緒くたにして「一向宗」と呼びました。
二人ともまったく同世代の人でした。
大衆の方でも「一向宗」についてかなりごちゃごちゃになっていましたので、この御文内の 「一遍、一向是也・・・・」というくだり、蓮如さんも多少混乱しているようです。一遍上人は「ばんば」と関係無さそうですし・・・
蓮如さんがそれらの教えとは一線を画したい、世にいう「一向一揆」扇動の首領者の汚名をすすぎたいという意図もあったと思います。
もっとも一向一揆につながった「一向宗」と呼ばれた人々はそれらすべての人々が加わっていたでしょうし、後に真宗という本願寺大教団に発展するそのベースとなったことは言うまでも無いことだと思います。
そもそも法然上人からの流れの浄土教にその分かれである親鸞聖人が出てその没後、その弟子たちにより「浄土真宗」なんぞの名称で呼ばれることに一番困惑したのはこれまでの「浄土宗」で、その新教団に対して法然浄土教系の継承者が「真宗」とは呼べるはずがなかったことは当然でしょう。
よって法然上人の流れで、同じ念仏集団であることからひとまとめに「一向宗」と呼びそれを世間でも追認していった流れがあったと思います。
本願寺側も自らの呼称についてそれほど「気にしない」といったスタンスであり、そうは拘っていなかったでしょう。
一向俊聖は北国街道にも近い中山道、古来より交通の要所であった宿場町、近江「番場」の蓮華寺にて立ち往生(立ったまま死ぬ)したといいます(1287年)。
蓮華寺本尊はツートップ、二尊本尊で「発遣の釈迦如来」と「来迎の阿弥陀如来」と珍しい風景です(京都には二尊院)。
もともと「法隆寺」を名のり天皇家勅願の寺としての時代があったためゴールドに輝く菊の御紋が門や書院の襖、本堂内部に鮮やかに光っています。
本堂裏には一向上人を荼毘にふしたあとに杉を植えた一向杉の大木(樹齢推定700年幹回り5.53m)が凛々しく立ちます。
蓮華寺は今は浄土宗の寺です(場所はこちら)。
他に周辺、三寺ほど真宗の寺が 目につきました。
近江門徒といわれるくらいですからね。
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