「花」か「華」 そして「葩」の字 「散華」 - daitakuji 大澤寺 墓場放浪記

「花」か「華」 そして「葩」の字 「散華」

「仏華」と書いたり「香華」「供華」と記したり、お寺で「花」~はな~を表現する時は圧倒的に「華」の字を使用します。

 私など枕経で自宅を訪れた際、「故人は花が好きだった・・・」等、縁者の談を耳にすればまず法名の一字として「華」という字をイメージしてしまうほどですね。

 

 ところが私どもの世界には「散華」~さんげ~という言葉があります。

これは夭逝、若くして亡くなった方に対し、送る言葉等の中でそれを譬える意味で使うこともあります。特に戦中戦後、戦場に駆り出されて死んでいった若者たちの死を美化する言葉として使用されたことがありますので、年配の方でその語彙をいいイメージとしては捉えられない方もいらっしゃるかも知れません。

 

  私は戦争で失う命をお国のために撒き散らす「はなびら」などと美しく語る詭弁にはうんざりです。

青空文庫に太宰治の「散華」がありますので一応リンクしておきます。彼は「臨終の美しさ」に拘る人で、ある意味理解はでき、「そうありたい」という気持ちを殆どの人が思っていることではありましょうが、もともと人は「その際」をうまい具合にコントロールできる立場にいないというのが現実です。まぁ、彼の生きた時代というものがそれを特筆すべきことと背中を押したものだったのだろうという空しさを感じます。

  付け加えれば仏の教えに「散り際」の是非など無いといってもいいのかも知れません。

敢えて記せば肝心なのは「生き際」でしょう。

 

 さて、ここで記させていただく「散華」~さんげ~とは、法要等(最近では大きな法要の厳修時)で「華」を模した色紙を「撒き散らす」ことですね。

当山では最近はその「散華」を行なうこともなくなりましたが(かつて報恩講で数枚づつ配布したことはありました)、元の発祥といえばホンモノの「蓮のはなびら」でした。 

儀式の威厳さもさることながら、阿弥陀如来来迎や浄土の荘厳を具現化したものです。

 

 その「はな」や「はなびら」のことを「葩」と記します。

 

 画像は先般東本願寺(真宗本廟)にお参り(バス遠足)し諸殿拝観を依頼した際のものです。本山より参加者人数分、記念配布された「葩」です。

親鸞聖人七百五十回御遠忌記念となっています。

 

 世にはこの「葩」のコレクターの存在があると聞きますが、特に今、巷で流行りつつある「御朱印」というコレクションよりもずっと踏み込んだもので奇特なものと思います。

実用としては、在家で「御文」の栞に使われているようですが。

 

 ちなみに真宗では「御朱印」はしていませんね。

その理由はここにあります。これも私が真宗でよかったとホッしているところの一つです。

私の場合、言うまでも無く「毛筆」が「イケない」(下手くそ)からですね。


 「葩」についての記述(本山配布)。

『大無量寿経』には、阿弥陀如来が浄土で説法されるとき、「無量の妙華を雨(ふ)らして、風に随いて周遍す」とされ、華は浄土の荘厳のひとつとして表されます。

仏典では、特に「蓮」の華を仏のさとりの象徴として描かれ、この「葩」も「蓮」の華の花びらをかたどったものです。

 

 なお「葩」に描かれた図柄は、御真影御厨子背後の壁に描かれた幸野楳嶺(こうのばいれい)「蓮池図」(銀色)並びに宗祖親鸞聖人六百五十回忌御遠忌(明治四十四年)においてそなえられた「五色散華模様」(金色)です。

 

トップに戻る パソコン版で表示