田沼後の相良 小島蕉園

蕉園墓所と当山廟塔

田沼意次失脚後の相良は一橋領となり代官が波津の地に屋敷を建てて政をとりました。

当初の代官は相良の人々に不人気で 一揆を誘発したため幕府は甲州の田安家の代官として良政を布し民衆に慕われた徳本流の医者、小島蕉園を抜擢しました。

 

蕉園は文政六年(1823)に遠州相良に 赴任し短くも文政九年に人々に惜しまれて亡くなるまで相良復活のために貢献した人です。

 

清貧に生きた医者として蕉園の心温まる逸話は残ります。

彼の仁政とその徳は現代の荒んだ人世に一服の清涼剤となりましょう。

 

駿河湾を見下ろす不動山の南側に墓が立っています。

 

画像左が不動山の蕉園の墓。

右が蕉園が記した当山大澤寺今井家の墓碑。

 

 

大澤寺 今井家墓碑原文 代官小島蕉園との交友

 

寺曰大澤山曰釘浦開祖祐寿上

 

人至今祐厳師蓋九世矣慶長中

 

及開祖遷化始瘞甕蔵荼毘骨以

 

建之立爾後世世合葬焉今茲文

 

政癸未十一月改作手顕碑面来

 

請書其由之書応需云蕉園藤彜

 

 

大澤寺、山号釘浦という寺


開祖祐寿上人から今の祐厳師まで九世


慶長中(慶長九 1604)開祖遷化(せんげ)に及び


始め荼毘の骨を瘞(うずめ)た甕(かめ)に蔵(しま)い


建立し爾後世々合葬していた


今茲に文政癸未年十一月改作に(着)手し


碑面を顕(あら)わすことから需(もとめ)に応じ請け


其由(よし)之書を書す


蕉園藤彜(とうい)

 

 

代官屋敷は大澤寺より北東に約200mにありました。

当山九代祐厳十代祐賢は蕉園と懇意にしていたといわれ

当家墓地改修の折、蕉園に墓碑銘の書を依頼したものです。

 

 

 

①遠州相良は田沼意次29年の知行を経て天領(代官江川太郎左衛門他)7年間、そして寛政六(1794)年より田沼排除の第一人者、徳川御三卿・一橋治済の管轄32年がありました。

 

②以下、一橋代官として相良に参った者は

 1.山下為之助   寛政6~

 2.矢島与一右衛門 文化2~

 3.渋谷熊太郎   文化3~

 4.山下為之助   文化10~

 5.本多金平    文政2~

 6.馬場新兵衛   文政4~

 7.小島源一(蕉園) 文政6~9

 

③御成箇(おなりか 年貢徴収)の方法には

 

 1定免

 2検見取

 

 があり田沼時代は「定免法」が採用されていました。

 しかし一橋領となってからの代官は「検見取」に変更しま

   した。

 よって上記2と6の代官の時、強訴、一揆が相良に発生した

   と言れます。そこで小島蕉園を招へいし、蕉園は従前の

   定免法に戻しました。

 

   一見すると前もって決定した一定額をキッチリ支払う

 定免制よりも実測して徴収額を決める検見取の方が合理的

  であるように思いますが実際は逆でした。

 検見取とは名ばかりで悪代官による枡騒動」の如くの

   恣意的な検地による不正が横行しました。

 定免法にしておけば農民は支払うべき年貢の額をあらかじ

   め計算でき、少しでも家計の足しにと閑農期の行う「切添

 (きりぞえ)開発」~山間斜面等を利した新田開発~なども

   有効に機能していました。

 

 しかし厳密に農民を管理する検見ではそんなささやかな農

 民の切添耕作による収穫すらも徴収対象にしたため、代官

 の悪辣さもって農民は困窮しました。

 

④昭和の戦前頃の当地小学校では毎年1月19日の蕉園の命

 日には墓前へ参るという習慣があったほど相良の人々の

 信頼と感謝の思いが続いていました。 

 

小島蕉園が相良に居た期間は約三年と非情に短い時間でしたが当時の相良と周辺地域の伝承や自らが直接感じた事物に関して「蕉園渉筆」という書物に遺しています(160の項目)。

小島蕉園160.xlsx
Microsoft Excel 19.3 KB

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