他人事じゃない 「コグニサイズ」知ってる?

知り合いの86歳の方、たまたま年初にインフルエンザに罹患して3週間の入院、その後転倒して骨折2回(手と足)入院のあと、呑み込みのための筋肉が著しく落ちて、「誤嚥」状態。

よって医師判断によって胃に穴を開けられ(PEG)てカテーテルから栄養剤を注入されることになった(胃ろう)と。

気の毒と思うのは、当人は意識がしっかりしていて「おいしいものが食べたい」と連呼するということです。

 

医師からは「口に何か入れれば窒息するかも」とのことで、当人の希望はかないません。家族の人は「病気が治るまでの辛抱」と言い聞かせて納得させているようですが、さぞかし双方が辛い思いをされていることでしょう。

後述の鮫島先生が、そういう段階でのリハビリもあり得ると仰っていましたが、それには患者さんの首回りと顎付近の筋力回復についてのトレーニングに付き添うトレーナーが必要になるでしょう。

そのようなシステムが補完できればもしかすれば「胃ろう」状況から回復できるのかも知れません。

どちらにしろそちらの病院の担当医が「回復」の方よりもそれ(胃ろう)を「選択」したのでしょうが。

 

その人は当初「3週間の入院」であったと聞きました。

それは人間の「筋肉の50%が消失する」という目安の時間ですね。そのうえにさらなる骨折が重なってさらに筋量が減ったことによる、呑み込み不良となってしまったという構図です。

インフルエンザで入院する以前は食欲もあって元気にしていたといいますから。まさに転落するかの如くの健康状態の変貌振りです。80歳越しての骨折等入院がいかに生活習慣のマイナスにつながるか・・・。

 

脳卒中・心筋梗塞の予後不良や痴呆症による「寝たきり」とは違う症状を原因とした胃ろう施術の件を記しましたが、病因(循環器・脳血管)の存在とそれをきっかけとする「寝たきり」を除いて共通するそのポイントはまさに「筋力」です。

 

さて、今年の拙寺のテーマは「運動と脳の活性」(健康寿命)。

昨日「8月の法要」は御前崎病院の鮫島庸一先生と介護施設「老健はまおか」理学療法士西下卓美先生をお招きして「運動能力の維持」を主題に講演いただきました。7月の盂蘭盆会法要の油谷氏講演に引き続き同内容。


お寺の大きな法要での「法話」は今や殆どこんな感じです。

それじゃあ「仏の教えにならない」とご指摘を受けそうですが、「私の命大切」は生まれたからには至上命題であって釈迦のその道の修行は「命の事」(四門出遊 生老病死)からがきっかけ。いわばそれは仏道の本質であると私は思います。

 

ということで運動機能・筋力の維持こそが老年期の自身の快適と要介護を遠ざけるという結論に至った次第です。そこに(人によっては)ちっぽけと思われるかも知れませんが「幸せ」を見出して、あるいはそこを目標に生き抜くという考え方を仏のメッセージとして伝えたかったのでした。

 

逆に鮫島先生から皆さんの前で私に対して「お聞きしたい」とあるテーマを頂戴しました。それが「仏の教えから見た認知症・ロコモについて」でした。

ロコモとはロコモティブシンドローム(運動器症候群)。

筋肉、骨、関節等の低下による歩行直立の困難状態をいいますね。また標記「コグニサイズ」(認識―コグニションと運動―エクササイズ)は国立長寿医療研究センターがその語の普及を企図して作った語で運動と認知トレーニングを組み合わせた認知症予防のキャンペーン。

私もコレはずっと関わって行かなければならないテーマと心得るにいたった次第です。

 

鮫島先生からの質問は「難しい問題」だと前置きしまして、自分なりの意見を述べさせていただきました。

釈迦そのもののそもそもの出家のきっかけは「生老病死」の解決ですが、要はその4点については人と生れたら絶対に逃れられない必ずどこかの時点で受け入れなくてはならないテーマですね。また、釈迦の時代は人の一生涯は平均すると50年も無かったのではないでしょうか。

 

よって今、お釈迦さんがこの平均年齢80超えの現代人の「老い」をテーマとしたその問題にはおそらくひっくり返って驚かれるのではないでしょうか。

当時は病や戦乱による混乱で「老いていく」余裕などは無かったでしょうから、まったく問題にもあがらなかったでしょう・・・。

 

しかしそれはあまり親切な回答ではありませんので私はその日の御文の「五帖の一 末代無知」の一節をあげさせていただきました。「末代無知」の御文は短くてサッと終わりますので、暑くて集中力がなくなりそうで、かつ時間的余裕が無いような時はとても重宝です。

 

短いので記します。

 

「末代無智の 在家止住の男女たらんともがらは こころをひとつにして  阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて さらに余のかたへこころをふらず  一心一向に 仏たすけたまえともうさん衆生をば たとい罪業は深重なりとも かならず弥陀如来はすくいましますべし

 

これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり

かくのごとく決定してのうえには ねてもさめても いのちのあらんかぎりは 称名念仏すべきものなり

 

あなかしこ、あなかしこ。」

 

真宗の基本、「弥陀の十八願」(十八番-おはこ)についてストレートに端的に蓮如さんが記した有名な御文ですが、私はその中の「いのちのあらんかぎりは」にその答があると勝手に説明させていただきました。

 

この言葉の裏には絶対に逃れられない「死」というものを受入れなくてはいけない私たちの在るべきスタンスが隠れていると思うのです。

きっと蓮如さんは「死は縁としてあるものの、その時を迎えるまでは、(折角いただいた命なのだから)「一所懸命」になってこの命に責任を持ち、おかげ様の心でもって念仏感謝の意を表しましょうと仰っているようです。

そしてあとは阿弥陀さまに「おまかせ」なのだよ、ということかも知れません。

 

法要終了後一休みして萩間川で催される「灯ろう流し」へ向かいました。拙寺婦人部の皆様方もそちらの催しとの掛け持ちで相当ハードな一日であったことが推察されます。

ありがとうございました。